ミーティングで少しのプレーをインストールされ、いよいよフィールドへ出てパッカーズのプレーヤーとしての初練習です。
 練習着に着替え、ランボーフィールドから500メートルほど離れた場所にある練習場に向かいました。「関係者以外立ち入り禁止」と書かれたフェンス越しにたくさんのファンや子供たちが群がっています。


 選手にサインをもらうための「出待ち」です。それはアジア人のルーキーも対象なようで、フェンスから出ると一斉に集まってきます。
 サイン攻めはドイツ時代から大好きな仕事の一つですので、歩きながらその場に居る全員(ざっと100人以上)にサインをしました。


 そうすると一人の少年が「なあ、ミスターナカムラ。僕の自転車に乗ってえな」と言ってきます。それは助かる、と思い彼を後ろに乗せて2人乗りで練習場へ向かいます。
 ヘルメットは彼が頭にかぶって持ってくれています。そしてその時に「あっ!」と思い出しました。「これはいつかテレビで見た、パッカーズの選手が少年たちの自転車に乗って練習場へ行くシーン。これの事かー! なるほど!」


 行きはゆるーい下り坂なので、ほとんど漕ぐ必要がありません。ランボーフィールドの敷地内駐車場を出ると、あまり車は通らない幹線道路で信号待ちをします。
 しかし選手が信号待ちをしているのを見たドライバーは止まってくれるのです。この街にいる人はランボーフィールドから出てくる自転車の選手がこれから練習に行くことをみんな知っているのでしょう。窓を開けて「イケイケ」と合図を送ってくれます。礼儀正しい僕は手を上げて会釈しお辞儀をして感謝の意を表現します。どんな時でも「世界一ファンに感じのいいアスリート」の地位は絶対に守ります。


 だんだんと練習場に近づいてきたようで、歩いている人が増えてきました。のんびりゆらゆら自転車を漕ぎながら後ろの少年と雑談していると、恐ろしいものが見えてきました。ものすごい数のギャラリーが練習場を囲むフェンス越しに座り込んでいるのです。
 ニッポンのお花見と同じ雰囲気です。練習なのにこれほどの人が見学に来るのか…とかなり驚きました。


 何千人かはいるでしょう。すごいことです。また、車道側からは中の練習が見えないようにフェンスに目隠し用の幕がはってありますので、ギャラリーは歩道側からしか見ることができないようになっています。
 当然ですがフェンス付近でもサイン攻めになります。誰だかわかんないけど、ユニホームを着ているし間違いなく選手だからととりあえずサインを求められます。


 紙切れ、ノート、メモ帳、ゴルフボール、野球のボール、フットボール、Tシャツ、革ジャン、レプリカジャージー、帽子、顔、腕、ズボン、選手にもらったらしきグローブ、僕は掲載されていないパッカーズのパンフレット、僕が載っているNFLヨーロッパのパンフレット、車、それはそれはありとあらゆるものにサインをしました。
 初日の一発目なので早めにグラウンドに入りたい気持ちがファンサービスに勝ってしまい、ある程度控えめにしてファンを置き去りにし泣く泣くフィールドに入りました。


 グリーンベイは冬にとんでもなく雪が降るというイメージがあるので寒い地方と思っていましたが、夏は日本と同じでとても暑いのです。
 昼間はめちゃくちゃ日差しが強く真っ黒に日焼けします。湿度は高くない(ような気がする)ので日本ほど立っているだけで汗だくのビショビショにはなりません。


 縦に200ヤード以上ある天然芝フィールドはとてもきれいに整備されています。見た目は人工芝のようです。芝の一本一本がパリッと硬く、歩くと芝生が折れる音が聞こえます。
 僕は早めに出てきたので集合時間まで軽く準備運動などして待つことにしました。なにしろどんな具合に練習が進むのかもわかりませんし、そもそも練習時間がどれだけあるのかすらわかりません。
 内容などもっとわかりません。質問するにも誰がランニングバックなのかもわかりません。不安な気持ちでいっぱいですが頑張るしか道はありません。


 すると段々と選手が現れ始め、ポジション別でなんとなく集まってしゃべったり準備運動などをしています。
 NFLでは体格で全てのポジションが明確にわかります。ランニングバックもすぐにどのグループかわかりました。


 近寄って行き「あ、どうも中村多聞です。フロムジャパンです」なんて英語で自己紹介し一緒に体を動かし始めました。すると「プワーン」と合図の音が鳴り練習開始です。その瞬間から各ポジション別にウォームアップが始まったのです。これは新しい始まり方です。一旦全員で集まらないのです。NFLの洗礼をいきなり浴びました。


 RBの選手たちも、さっきまでのノンビリムードとは一変し、コーチの指示でガッチリと体を動かし始めました。ヘラヘラしていた人も今から試合が始まるかのような集中力です。
 この変貌ぶりは一体なんだ。これが「プロ」か。これが「プロフェッショナル」なんだ…と、またまた驚きです。開始10秒で2度の大ショック。先が思いやられます。


 そして5ヤードのダッシュが始まりました。コーチの合図でスタートします。フルスピードではなく軽目にスタートダッシュをするだけです。事件はここで起こりました。
 この時から数年後の2004年にはプロボウル出場でオールプロにも選出された2歳年下のウィリアム・ヘンダーソン君(FB33番)の次が僕の順番です。彼は僕のすぐ前で前方に進むため地面を蹴りました。1歩、2歩、3歩だけ見て僕は腰が砕けそうになりました。


 推定体重115キロ。身長185センチ。マッチョで大柄な黒人FBは脚の長さもすごいです。しかし、重心の位置がメチャクチャ低いのです。そして地面に着地した足の裏から地面深く突き刺さる何かが出てきているのか? と思うほどに力強いのです。こんなのは見たことがありません。


 こんな文章ではサッパリ意味がわからないかもしれませんが、RBというのは早く強く動き、方向転換や急な減速のためには重さのある胴体部分の低重心化が不可欠です。大原則です。
 脚の長い彼が、なぜここまですさまじいトルク感を出しながら低重心で高速走行できるのか。しっかり観察しましたが、メカニズムは全く解明できませんでした。


 それを見た僕はがっくりしました。会社を休んで意気揚々と乗り込んできたウィスコンシン州グリーンベイ。あわよくばNFLと正式契約して全米のスーパーヒーローになる予定が、練習開始直後にアメリカ人選手の底力を見せつけられたのです。


 ここは絶対に僕がどうにかできるような世界ではない。全くかなわない。どうしようもない。あと100年練習しても無理だ、とハッキリ理解できました。彼はNFLのレギュラー選手ではありますが、スーパースターではありません。それでもこの動力性能です。
 9年のキャリアでの年間平均ラッシングヤードは50ヤード程度。ラッシングだけで言えばNFLでも下の方です。そんな選手でもコレかよ…と落ち込みました。


 僕のフットボール人生で最良の日となった「パッカーズと契約」した直後に「フットボール人生で最も悲しいこと」が起こってしまったのです。

【写真】パッカーズファンの少年を自転車に乗せ練習場に向かう多聞さん