1部リーグで活躍したいがために東京に出て来て、ペガサス球団でタフな毎日を送っていましたが、今の自分ではどうにもできない理由でチームを去るしか方法がなくなりました。
 しかし、辞めると言っても当時はまだほとんどのチームが三武ペガサスと同じで、社員100%の実業団チーム。クラブチームはあまりありませんでした。まずは社員として入社させてもらい、そしてフットボール部に入る。という手順になります。または唯一の強豪クラブチームである「シルバースター」か。


 ペガサス首脳陣との会話です。
多聞「どうしてもテレビ放送のあるレベルのステージで。つまり1部リーグでプレーをしたいのでペガサスを辞めたいと思います」
首脳陣「オマエの気持ちはわかっている。こちらとしても強いチームにできなかったことをお詫びする」
多聞「はい。そして必ず社会人の決勝戦(注1)で優勝をします」
首脳陣「そういうボウルゲームに出るダケじゃ駄目だぞ。そこで思いっきり活躍するんだと約束するなら辞めさせてやる」
多聞「はい。必ず決勝戦で大活躍することを約束します」
首脳陣「そうか。わかった。頑張れ」
というやり取りがあり、ひとまず会社には残り、三武ペガサス球団を卒業することになりました。


 ところが三流大学を出て、会社勤め経験のない(注2)坊主頭のヒゲを入れてくれる会社は残念ながらありませんでした。
 オンワード、リクルート、東海銀行、すかいらーく、マイカルといったいくつかのチームには三武側からコンタクトを取ってもらったりしましたが、「今年度は不可能。来年度もしかしたら…」という回答がいいところで、他は全く駄目でした。まだまだ到底1部リーグで活躍できる実力ではありませんでしたし、仕方ありません。


 そうなると、残るはクラブチームであるシルバースターを目指すことになります。志願していることをシルバースターの方に伝えると、「三武に勤務しながらでは駄目。まず会社を辞めてから来なさい」という回答でした。
 大慌てで次の仕事も決めないまま三武を退職し、シルバースターの門をたたきました。川崎球場での練習に参加してもいいということだったので早速意気揚々と乗り込みました。
 テレビで見たスターばかりがウヨウヨといるモノすごいチームです。当時のナンバーワンランニングバック野村選手(拓殖大)は優しくいろいろと話しかけてくださいました。


 そして練習が終わり、僕は不合格(注3)を言い渡されます。足も遅いしランニングバックとしては不要だ、ラインマンとしてなら練習生で入れてやらないでもない、ということでした。
 入れてくれないなら三武を辞める前にテストをしてくれればいいのに、というか一日で何がわかるんじゃ! と悔やんでも時既に遅し。最悪の事態です。


 このことを野村さんに話したところ、「まずはラインでもいいからチームに入ってその後ポジションを変更するという手もあるんじゃないかな」とおっしゃっていただきましたが、自信のあるランニングバックでも落選するのに、未経験のポジションを最強のチームで出来るはずがないのはわかりきっています。
 僕の出した答えは「シルバースター入団はあきらめます」でした。野村さんにもそのように報告したところ「そうか、仕方ないね。でもいいか多聞。何でもいいから一番を目指すんだぞ。そうじゃなきゃ絶対駄目だぞ。お互い頑張ろうな!」と励ましの言葉をくださいました。


 さて、ここでドコのチームにも所属していない浪人生となった僕はとりあえず自主トレをして毎日を過ごします。当時は神奈川県の逗子(注4)に住んでいたので、海岸線を走り込んだりしたのを思い出します。
 3部リーグの弱小大学出身で雑誌に出るような有名選手ではないことは、これほど門が狭くなるのか。フットボールをトップレベルのチームでプレーする難しさを痛感します。
 そんな名もない僕(注5)を快く受け入れてくれた三武ペガサスの懐の深さがあったからこそ、僕はフットボール界に入ることができたんだと、この時に強く感じ、感謝の気持ちでイッパイでした。


 辞める時の誓いは、この後の僕のフットボール人生で大きな意味を持ちます。どんなにしんどくても辛くても「ペガサス球団全員の思い」を日本選手権に持っていくために。


(注1)当時は社会人決勝が日本で最もハイクオリティーなボウルゲーム。その次に甲子園ボウル。よってライスボウルはお祭りという位置づけでした
(注2)スーツや革靴は持ってはいたが、入社式、花見、平日開催の試合、冠婚葬祭ぐらいしか使っていないのでサラピンのまま。電話の出方や名刺交換のマナー、一切知らないままの26歳でした
(注3)何年か後に田センパイも受験しに行ったらこう言われたそうです「三武は駄目」。不思議に思い、コレはどういうことかと検証したところ、三武のセンパイたちがシルバースターに入部すると言っておいて三武ペガサスを作っちゃったことを根に持っているらしいと。ということは、僕はその巻き添えを食ったってわけですね。入部させないと最初から決めていて会社を辞めさせたワケですね。ほー、オモロイやないけ、という結末です
(注4)あこがれの湘南エリアで東京に通勤可能なギリギリの場所として選んだのが逗子でした。ランニングで鎌倉や由比ケ浜へ行き、人けのないマリーナや駐車場でスプリントの訓練などをしていました
(注5)田センパイは僕の事を「ゴキブリ」と呼んでおられたことを思い出します。避けるかなと思ったら急に向かって来る、という意味もあるそうです

【写真】三武ペガサス時代の多聞さん