「三武ペガサス」で2年目を迎え、少しばかり「自分の役割」や「責任の量や場所」を認知できるようになり、心の余裕も生まれ始めました。
 練習の流し方も身につき、毎日を楽しめるようになってきていました。あの70番のイヤミなセンパイとも仲良くなり、休みの日に出掛けたり、練習後の夕方は毎日テレビゲームで勝負する間柄になりました。


 そしてまたパールボウル(2部以下はJr,パールボウル)のシーズンです。
 今年こそはと大阪から家族や友人が東京ドームまで応援に来てくれましたが、KG卒のピチピチしたQB東村選手率いる東京海上ドルフィンズに0―3で惜敗。自身は敗戦側から選ばれる「敢闘賞」を頂戴したけれども、悔しくて悔しくて泣いてしまいました。このように春も秋も関係なく必死でプレーしていました。


 秋のシーズンまで少し間が空いたある日、三武ペガサスのクラブハウス前に粗大ゴミ置き場があり、その中に2メートルほどの大きな白い板のようなものがあります。
 「なんじゃこれ?」という感じで掘り出して見ると、どうもカウンターの天板のようでした。人工大理石でできたメチャクチャ重いシロモノでしたが、力自慢の後輩に手伝わせ「タモンさーん、また何やろうと思ってんのー?」の問いに僕はこう答えます。「アホかおまえ! カウンターひろたら普通はバーやるやろ。裏庭に運ぶぞ。ほんで雑草を枯らして全部なぎ倒して店作るぞ!」ということで、チームの敷地内でクラブハウスでは使っていない空き地の部分に、バーを作ることを思いつきました。これが「タモンズバー1号店」です。


 親会社の株式会社三武(ミツタケ)は建設業もやっているので、建設用資材がたくさん置いてありまして、コレを勝手に拝借。地面に杭を打ち込んでカウンターを設置。ベンチシート、棚、そして肝心な壁と天井を毎日の練習と練習の合間にせっせと作って行きました。チームの後輩達はペンキを塗ったりホームセンターに買い物に行ったりと大忙しです。


 ほとんど冷えないけど、ある程度冷える冷蔵庫をセンパイにもらい、近所の料亭からお皿やグラスをもらい、先輩方の実家で余っているお酒などをもらい、自費ではビールひとケースを買っただけ(24缶で2980円)でいよいよオープンの日がやってきました。
 バーは、チームメートやたまたま通りがかった人たちがたくさんお越しくださり大盛況。用意したお酒はほとんど売切れ。翌日はその売上金を全て仕入に使いウイスキーやビール、カクテルなどのラインアップもドンドンと増えていきました。


 もらったブレンダーでフローズンマルガリータまで出すほどになってきました。電気はクラブハウスから延長コードで無断使用。携帯電話の普及していない時代でしたので、電話は部屋のコードレスで届く距離(約10メートル)で、お客さんが外線を使う場合貯金箱(写真)に暫定的な電話代を自主的に入れるシステムでした。
 音楽は有線放送を契約して部屋のステレオに接続し、スピーカーケーブルだけ2階の部屋からビヨーンと伸ばして拾って来た大型スピーカーを設置。もらった壊れかけの扇風機を2台動かしておけばどうにかしのげる冷夏だったのも幸いしました。夜に外で飲むのが丁度心地良い気温だったのですね。


 それはそれは毎夜満員で、いろんな人が出入りしてくださいました。空き地に人がわんさか集まりガヤガヤしているので「店長さ〜ん、苦情が入ってましてね。もうちょっと静かにしてくんないかなー」と毎夜警察が注意に来ていました。
 そして住民からの苦情がいよいよ本社にいってしまい、会社から「店はヤメなさい」となり、やむなく閉店。半年弱の「屋台バー」でした。


 食べものは出前のピザ。出前を取ったら僕にもピザをくれる、というのが条件でした。首都高速と国道からスグ横の渋谷区の空き地にある屋台のバーで安く飲んでピザを食う。今考えたらメチャクチャはやる気がしますね〜。
 1年目にはそんなことして遊んでいる余裕など一切なかったのに、夜に寝る間も惜しんで商売に勤しみ、お金が儲かることと、東京でアメフト以外の人たちとの新しい出会いが楽しくて仕方ない年でした。


 そしていよいよ秋のシーズンが開幕。チームは約15人しかメンバーがいなかったので、ほとんどのセンパイたちが攻守両方に出場。後輩達はまだまだカスなので、まだ一人前分を働けない上に、僕は体力がないのと守備が下手なので相変わらずのランニングバックとキッキング(キッカー/パンター兼務)だけの出場でした。
 攻守両面に出ている先輩ラインマンらの力強く奥深くまで進むダウンフィールドブロックは、体力的に期待できません。1試合に何度か訪れる独走タッチダウンのチャンスを絶対にフイにしない(ブロッカーが少なかったから独走中にタックルされました。という言い訳は一切通用しない)ために、長い距離でも失速せずブッチギリでタッチダウンできるスプリント能力を手に入れたくて、2年目になってから100メートル走の練習を始めました。


 短距離走の選手とフットボール選手のイチバン大きな差は後半の伸びです。伸びというか失速を抑えるのがフットボール選手は苦手です。
 高速で走る二足歩行のわれわれは、イヌやネコと違い、訓練をしていないと着地の毎に自然とブレーキがかかってしまうので、いかに身体の力を抜き、2本の脚を車輪のような役割にするかが後半の伸び方に大きく関係します。


 100メートル走はザックリ言えば「足が速い」ということでもありますが、やはり競技なので「技術」が大きく入り込みます。
 ハンドオフと同じで歩数も足の着く位置も毎度同じでないとダメなのは当り前。スタート時の低速トルクを絞り出す技術、低速から中速にシフトアップするタイミングと技術、そして中速域から高速用のトップギアに入れて最小限まで脱力して疾走する技術…。


 単純であればあるほど、緻密で繊細な作業が求められます。そして早いビートを刻めるセンスと、そもそものパワー、脚の長さなどが融合されてなおかつスタートを合わせる反射神経…。
 つまりスタートから少しの距離に関しては(日本の)フットボール選手は数多く反復しているので得意としていますが、高速域は練習していないので、できないっちゅうハナシです。


 これをフットボールの練習やトレーニング&ミーティングが終わってから、代々木公園で基礎から教えてもらい鍛錬に励みました。足のさばき方から重心を高くして高速走行に備える技術、この期間中には学び切ることはできませんでしたが、このスプリント訓練は37歳で引退するまでずっと継続していました。


 ま、自分が全盛期のアサヒ飲料時代でも50ヤード以上の独走タッチダウンをしたことは何度かしかないので、いかに試合では本来持っている能力が発揮できないかっていう例になってしもてますけどね…。
 そんな毎日を過ごしながら、チームは快調に勝ち進み2部リーグ優勝を決め、入替戦進出が決定。またあの「さくら銀行ダイノス」との対決です。

【写真】「タモンズバー1号店」をオープンした多聞さん