高校生になった僕は、フットボールへの思いはあるものの、プレーする場所は河川敷のプライベートチーム(注1)。しかし練習開催を予定している日曜日の集合場所(注2)に誰ひとり来ない日も多く、所属していてもムダだなと感じた僕はだんだんフットボールから離れていきます。


 アメリカ留学から帰って来たセンパイ(注3)の話を聞けば聞くほど気持ちは盛り上がりますが、何もできないままオートバイ(注4)にのめり込んで行きます。
 大学受験が近づき、1部リーグ所属(注5)で僕の学力で受かる大学はありませんでした。前出の恩師板橋先生が大阪体育大学出身だったこともあり、僕も志望しますが高校で運動部に入っていない者(注6)には結構高い学力が求められるという理由で、高校の担任から却下され、フットボール部の活動が知られていない〝南河内大学〟へ進学するしか道はありませんでした。


 クラスメートに大阪産大付属高フットボール出身の宮ちゃん(注7)がいたのをきっかけに、大学2年の後半から幽霊部員を含む15人ほどのフットボール部に所属、練習には2、3人しか集まらない(注8)日などザラにありました。
 大学3年の秋から協会に所属し、もちろんリーグ戦全敗を記録。5試合で我がチームが獲得したタッチダウンは2本。うち僕が1本。PATはいずれも失敗。取られた得点は300点以上でした。


 翌年はスポーツ推薦で入学してきた経験者なども含め、40人ほどに増えたチームにはなりましたが、そこそこ善戦するものの、秋のリーグ戦では結局全敗。
 しかし、これまでの「フットボールをプレーできなかった境遇」から比較するととても前進しているわけで、試合で結果を出せないのは自分の実力不足以外何の理由もないわけです。このままでは僕を社員として雇う実業団チーム(注9)(当時はシルバースターとサンスターだけが強豪クラブチームで、他はほとんどが社員100%の実業団)はありません。


 秋のシーズンが終わるやいなや、第1回ジュニアオールスター(注10)が開催されることが発表されます。コレは大チャンスがやって来たとほくそ笑みました。全敗チームからも選出される甘めのチーム構成の隙間に入り込み、出場枠を確保した僕は練習で目立つ方法を板橋先生に相談にいきます。そして先生はこう言いました。
 「ええか。オマエのことなんか、だーれも知らんねんから、メチャクチャやったれ。タックルなしやとか半分のチカラで当たれとかの練習でも全力でバッチバチにいったれ。ほんなら向こうもやり返してきよるやろけど、それでもまたぶっ倒しまくっとけ。絶対に手を抜くなよ。どんな時でも誰に何を言われても手を緩めるな(注11)。それしか目立つ方法はない」と。


 そしてスカウトの為(注12)に東京から練習を見に来られていた三武ペガサスの皆さんの目にとまり、チームのキャプテンである楢崎五郎氏から「一緒にニッポンイチになろうよ!」と言われ大感激。その場で三武ペガサスへの入団を許される事になったのです。
 低レベルながら本気でフットボールをしたことによって、人生の大きな岐路が目の前に転がって来たのです。


 そして数日後、宮ちゃんとペガサスの試合を東京へ見に行くことになりました。前年度に鹿島ディアーズが同ブロックにいたおかげで3部リーグで優勝できず、3部リーグ2年目のペガサスは100点ゲームばかりで2部に上がる年でした。
 大学の3部リーグでチョイチョイやれていると調子に乗っていた僕は、彼らのプレーを見てうちひしがれます。宮ちゃんも「オマエこんなトコでやれるんか? 無理やって」(注13)と言う始末。
 僕らにとっては、フィールドを駆けるスピード、ヒットの力強さ、プレーの精度、ジャージーから見える腕の筋肉量、何から何まで全く違う次元に見えたのです。


 「コレは無理や!」と当然僕自身も思いました。
 そして試合後にビビりまくっている僕らの所に近寄って来た楢崎五郎さんは「今度、防具持ってウチに練習しにおいでよ。いろいろ教えてあげるからさ」と言いました。「怖くなったので入団は辞退したくなりました」などと言えるはずもなく、後日防具を持って三武ペガサスの練習に1週間程参加することになったのです。つづく


 (注1)中学生でも入れてくれるチームをQBクラブの親切な方に紹介してもらったが、やはりそんなチームは集まりも悪い。今となってはアタリマエだけど、当時は意味がわからなくて困惑した
 (注2)阪急十三の橋の下あたりと記憶しています
 (注3)我が清教学園は交換留学生制度が盛んで、年間に何人もの留学生を受け入れて送り出していました。アメリカに行った2学年上のタイラ先輩からアメリカの高校の話を聞くのがとても楽しくてうらやましくて「自分も必ず行くんだ!」と勝手に決めていましたが、安価で留学できるテストに落ち夢も散りスポーツも勉強もせず
 (注4)高校の思い出はオートバイで遊んでいたことばっかりです。よく死ななかったと今でも運の良さに感謝しています
 (注5)この年の関西1部リーグは「京大・関学・同志社・近大・大体大・立命・神戸・阪大」で構成されており、チャンスがあるかもしれないのは大体大か近大の夜間だけでしたがあきらめました
 (注6)ラグビー部に入ったのですが、ルールがつまんなくてひと月でヤメました
 (注7)後のキャプテン。僕がいじめてヤメちゃったザコをなだめてはクラブに戻す役回り。4月2日生まれ
 (注8)3人しか来なかった日には2人がONE ON ONEまたはMAN AND MANを行い、一人がビデオを撮る
 (注9)当時はほとんどが実業団で、現在のようなクラブチームばかりになってしまうとは誰も想像できなかった
 (注10)今で言うVARSITY・BOWLですね
 (注11)そうなんです。練習の手を緩めるのはヘタクソだけの得意技なんです。この時に「練習でおもいっきりプレーする」ということを学びました。普段の練習は7、8割でやり、試合で10割というバカなことが習慣づいていました
 (注12)実は「僕はヤル気も体力もあるが経験と知識がない。だからイチから教えてくれるチームを紹介してください」と当時のMr.モンタナ店長だった上田ヒロヤさん(日体大卒~オンワード~現明大前F―FORCE店長)に相談していました。「今度東京からちょっと変わったチームの連中が大阪に来るから君の練習を見に行くように言ってやるよ。そこでめがねにかなわなければ、あきらめなさい」と言われていました。ペガサスと僕をつなげてくださった上田さんには感謝しきれません
 (注13)ペガサスのフットボールは学生3部で1勝もしたことのない僕らにとって「早送り」のように見えました。というか早過ぎてよく見えなかった。その直前にコカコーラボウルを見て観て来て免疫はあったハズなのに。ハードなタックルに挟まれて倒された敵のボールキャリアが次々に担架で運ばれ、ペガサスのベンチに残っている5人ほどが談笑しながら一切の疲れも見せず試合を見ている。この2年間で圧勝している側のベンチにいたことがないのもありますが、自分たちとのあまりの違いに、僕と宮ちゃんは半笑いで震えていました

【写真】バーシティボウルで優秀ランナー賞を受賞した多聞さん