「痛い言うな。しんどい言うな。牛乳2リットル飲め。首を鍛えとけ。後はどうでもエエ!」「やらなアカンことやってから余計なことやれ!」「衰えを年齢のせいにしたら人間終わりや!」「単車でウイリーしながら職員室の机に乗ることが目標や!」「アイツはアホや。選挙に行くな。年賀状出すな!」―。
 僕が通った大阪の清教学園で出会った、大阪体育大学でアメフトをプレーされていた板橋先生語録の一部抜粋です。「イタハシ」か「イタバシ」かは知りません。


 中学に入学したばかりでまだ敬語を使えない僕が、校内で「OCPE」と背中に書いた赤いジャンパーを着ている兄ちゃんを見つけ「自分フットボールしてたんやろ? 俺な、プロになりたいねん。フットボール教えてえな」と近づきます。そして板橋先生は笑いながらこう答えます。
 「何やオマエ。(キャッチボールしながら僕の運動能力を見て)あー、オマエじゃ無理や。でも俺が教えたら少しはいける確率があがるかもしれへん。試すか? しんどいぞ」
 で、フットボールの基礎を習うわけですが、ここで先生の弟子になる条件が提示されます。「痛い、しんどい、を絶対に言うな!」と。


 これはなかなか大変な約束でした。でも、希望はこの板橋先生だけだったので、それなりに頑張りました。週末は河川敷のプライベートリーグで少しプレーしていました。また、僕は右利きですが左方向に走りながら左腕で投げる練習もかなりやりました。
 どこにもまだそんなヤツがいなかったので、「コレができれば、QBとしてプロで第一人者になれるハズや!」と心の底から信じていました。だいぶアホですね。板橋先生にも「アホか。ムリじゃ」と言われました。


 毎日学校で先生(板橋先生以外の教師)にグーやパーで殴られまくることや、体育の授業をはじめ、全てのしんどい事を「これもフットボールのためや!」と強く信じて思い込み、耐えに耐えた日々だったように思います。今なら大問題ですね。中学3年の時のサイズは168センチ、68キロでした。


 この頃は体を鍛え、大きくすることに夢中でした。趣味でもあったのかもしれません。当時は有名デパートにしか売っていなかったプロテインの粉末。全く溶けないし味も激マズ。そして高額。板橋先生からは、「プロテインなんか飲まんでエエから、毎日牛乳を2リットル飲め」という指令が出ていたのですが、牛乳がとてもキライな僕にとっては、かなりしんどいノルマでした。
 イッキで飲まねばにおいもするし大変でした。ましてや激マズの溶けないプロテインと同時に飲むのです。学校でも昼休みに飲んでいました。いま思い出しても気持ち悪いです。どういうつもりであんなもんを販売してたんかメーカーに聞いてみたいです。


 先生の教えには「首を鍛えろ」っていうのもありました。仰向けに寝転んで1時間首を上げたママでテレビ見るという感じです。最初は3分も持ちませんが、そのうちできるようになってくるから不思議です。
 スクワットの回数を親友のアラキとマンガの影響で競い合っていたのも足腰を鍛えるちょうどいい理由になりました。おかげで中学2年生の時に太ももが60センチを突破しました。水球をやめたので肥満化しはじめてきた影響もありましたが…。


 そうやっていろいろ活動したり勉強していくウチに、子どもながら現実が見えてきます。NFLにQBとしてドラフトされるには身長が足らない、遠投力が足らないという基礎中の基礎を知ることになります。ならばと、目標をランニングバックに下方修正します。
 しかし、万が一の時のために、キッカーでの就職を保険にしておこうと中学ではサッカー部に所属しました。目標は遠くのゴールポストにキックをうまく入れることなので、サッカーの細かい技術や作戦には全く興味ありませんが、露骨に表現するとコーチやセンパイにイジメられたらアカンので、ヤル気あるフリだけしていました。


 そして中学3年になる頃、またもや関学への進学を夢見ますが既に成績は学年最下位レベル。内部での進学すら危ない状況において転校への挑戦など、中高一貫教育の制度内ではリスクが高いので許されるハズもなく、あっさりと「ハイスクールKGボーイ」への夢は途絶えてしまいます。そして、フットボール選手になる難しさを痛感し、日々悶々とすることになります…。

【写真】清教学園中時代の中村多聞さん