トヨタ自動車工業に入社したが、有名なコーチが書いた本を読むと、自分たちがやってきたことと根本的に違う。どうしてもこの目で見たいという思いは募る一方。後年トヨタ自工は米国での現地生産が定着し、多くの人が米国で仕事をするようになった。
 当時はトヨタ自動車販売が米国輸出に力を入れだしており、米国派遣の機会はあったようだが、自工にはその機会は全くない。寝ても覚めても「アメリカ」で仕事にも身が入らない。これでは会社だけでなく自分のためにもならないと、意を決して退社することにした。


 大学時代の同級生、大屋峻君が、コロラド州の大学の大学院で博士号を取るために勉強中で、いろいろと力を貸してくれたので、小生も同大学の大学院に行くことになった。
 1971年8月から72年12月までの間だったが、大屋夫妻にはずいぶんとお世話になった。特に千代夫人にはいつも食事をご馳走になり、大変ありがたかった。貧乏学生だったので、何とか学費免除の奨学金をもらうため、ある程度の成績を取らねばならず、京大時代とは比べものにならないほど勉強もしたが、何と言っても目的はフットボールを見ることである。


 その頃は「ビッグ8」が大変強く、ネブラスカ大学、オクラホマ大学に続いてコロラド大学が強かった。そのコロラド大学が車で1時間ほどのところにある。訪ねていってクラウダー・ヘッドコーチにあいさつしたら、親切にも練習見学とミーティングに参加してもいいと言ってくださった。
 しかし、日本で10年間英語を勉強したはずなのに、買い物すらできない。これではミーティングに出させてもらう意味がないので、練習だけになった。それでも多いときは週に2、3回見学させてもらったが、まさに「目からうろこ」であった。


 コーチの仕事は、大別すると選手を育てることと選手を使って試合をすることである。それまでの小生のコーチングを振り返ってみると、関心のほとんどは優れた選手を育てることであった。もちろん、最終目標は試合に勝つことであるが、未経験の1年生を入れて何とかチームができるわれわれは、選手を育成してみないと、どんなチームになるか分からないのである。まず、チームありきで、それに合わせて選手を集める米カレッジのコーチとは、根本的にやることが違うのは仕方のないことである。


 もっとも、関西学院はわれわれとは別世界であったのは言うまでもない。当時の関学は、われわれにとってお手本であったが、小生も関学というチームを見ていなかった。優れた選手を見て自分もそうなりたい、素晴らしいプレーを見て自分もやれるようになりたいと、ほとんど「個」しか見ていなかった。


 本場のカレッジを見たときの衝撃は、個よりチームなのであって、チームとして戦って勝つためには、求められた能力を備えた選手を集め、役割を与え、そのための統一されたテクニックを教え込む。選手はロボットではないから、能力にはある程度差はあっても、誰かがけがをして代わりの者がプレーしても一応同じことができるのである。
 プレーもテクニックもそのための練習も標準化されており、同じポジションの者なら誰でもできるようになっている。「チーム視点」とはこういうことだったのである。その時思ったのは、これはトヨタの仕事のやり方そのものだということである。


 何百人という人が働いている生産システムで、この人にしかできないという仕事があれば、その人が休んだりいなくなるとシステム全体がストップしてしまう。これは最も避けなければいけないことである。
 誰かが休んでも、他の者が代わって同じ仕事ができる。製品も部品も仕事も標準化されており、それがどこまで高いレベルで実行されているか。全ての物、車の品質が厳しく管理されている。これがトヨタの車が高品質である理由である。


 与えられた仕事をただ忠実にというだけではない。自分の与えられた役割を、より完全に実行するために常に工夫が求められている。「よい品、よい考え」の標語の下の改善の精神である。
 ただ、それが無計画であってはいい結果は出ない、計画的にシステマチックに行わなければならない。「プラン・ドゥ・チェック・アクション」をトヨタで学ばせてもらった。そして、それをアメリカンフットボールという場でどう実践するかをアメリカで学ばせてもらった。


 帰国後の73年は、1年間親のすねをかじりながら、恩返しのつもりでコーチをすることになった。その時、チーム視点、標準化を取り入れたが、これは効果的であった。6戦全勝同士の関学戦。試合終盤まで0―7だったが、最後のギャンブルが裏目に出たりして0―17で終わった。
 だが、それまでは50点ゲームが当たり前であったのが、やっとまともな試合ができるようになった。これが京大の「近代フットボール元年」と思っている。
 しかし、その時全てを変えたわけではない。私は正解が大嫌い。私は自分が合理主義だと思っている。合理的とは、科学的、論理的ということではない。どんなものであれ、良いものは良いのである。


 アメリカ流の良いところは大いに学ぶべきだが、自分のやってきた日本式の良いところは継承すればいい。私の経験談で恐縮だが、防大ではひたすら「低く」「速く」を教えられた。秋の日大とのリーグ戦は、訓練で上級生がいないので1年生の小生も出ることになった。
 今でも記憶に残っているのが、こちらがオフェンスで小生は左ガード。対面の6―2ディフェンスのDGは4年生であったが、私より背は低いし体重も60キロあるかどうかという人であった。これなら負けないだろうとブロックにいったファーストプレーは、見事に下から突き上げられ、押し込まれた。次のプレーはもっと低くいかないとと思っていったが、また同じようにやられた。3度目は、これ以上低くいけないくらい低くいったが、相手がいなかった。小生を飛び越えて、ランナーをタックルしていた。


 訳が分からなかった。京大へ入っても同じような体験をする。関学とのリーグ戦、小生はディフェンスでは左DG、対面は4年生の船木さんという人だった。背は小生より高いが、体重は小生が10キロほど勝っていそうで、簡単にはやられないだろうと思ったが、プレーが始まったら消えるのである。気がついたら脇の下にくっつかれて押しまくられている、という状況が試合中続いた。
 何をされたか、全く分からないままだった。その秋私はライスボウルのメンバーに選ばれた。当時のライスボウルは東西の大学オールスター戦である。東軍は日大主体、西軍も大半は関学だから甲子園ボウルのやり直しである。練習は関学の日常的な練習に参加させてもらうというものだったと思う。小生にとっては、ほんろうされた船木さんがどんな練習をしているのか、大変楽しみで参加した。


 練習は体操、スタートダッシュ、全員でのフォワードパス、ダミーブロックというように、関学のルーティンワークが効率よく進められていく。そのダミーブロックの練習である。当時関学の人は「目の下一尺」と言っていたが、船木さんはゆったりしたスタンスから、一瞬にスタートして本当に地面から30センチくらいのところに肩を当てるのである。
 するとダミーがポンと垂直に浮く。もうそれで終わり。それを見て小生は「これは俺では歯が立つわけない」と痛感した。それから3年間は、小生の練習は来る日も来る日も船木さんのダミーブロックを追いかけていた気がする。そして、4年生の時にはダミーに自由自在に当たれるようになり、スクリメージでも思い通りのブロックができるようになっていた。


 あの頃のラインは、日大の人も関学の船木さんも、尻を落として軽く手をつく本当にリラックスしたものであった。真似した覚えはないが、気がついたら小生も同じようなスタンスをしていた。こういう取り組みをすると、やめられなくなる。そのための目標を与えていただいたことは、心底感謝している。前回も書いたが、スキルは理屈ではない。意識が自由になるまで、練習を重ねることである。
 小生のコーチングの主題は当たりであった。多分、当たりだけは他チームの経験の長い選手にも引けを取らないくらいやらせたと思う。だから、あの頃は「京大の当たりは痛い」と他チームから嫌がられていたようである。
 強かった頃の京大の強みはまず当たりで、次が近代フットボールだと思う。フットボールインテリジェンスでは、最後まで関学を上回ることはできなかったと思っている。

【写真】ボールキャリアに激しいタックルを浴びせる京大守備陣=27日、キンチョウスタジアム