京大を1965年に卒業したが「自分も藤村先輩のように」という憧れで、完全にスイッチが入っていた。そのためのフットボールであり「打倒関学」であった。
 とはいっても、京大でフットボールをした4年間に関学戦で点を入れた記憶は一度だけ。関学は礼をわきまえてか、最初は一軍、そこそこ点を取ると二軍になり、試合後半はほとんどが一年生であった。これはこれで、精神的にはきついことで、真面目にやるのが嫌になるのである。フットボールが楽しいなんて思ったことはない。そして、コーチになった最初の試合が西日本大会という春のトーナメントでの関学戦であった。


 結果は0対114。試合は1時間45分で終わっている。ファーストダウン更新で時計が止まらない60分ゲームだが、どう考えても114点入って2時間以内に試合が終わるというのはあり得ない。
 当時はゲームクロックなどなく、アンパイアがストップウオッチを動かしていたのだが、われわれに同情して止めるべき時に時計を止めなかったのか、試合を早く終わらせてくれたと思っている。正式にやっていれば、300点くらいの試合になっていただろう。


 こんな現実を突きつけられたら、夢などさめてしまうのが普通であるが、スイッチの入った馬鹿は止まらない。しごきは一層エスカレートする。しかし、正直なところ「しごく」のも「しごかれる」以上にしんどい。自分自身、どうしたら選手が上達するか、チームが強くなるか分かっていない。要は未熟なのである。だから、しんどい、つらい練習をやることで強くなるとしか思えないのである。
 しかし、やっていることに自信がないから、本当にこんなことをしていていいのかという思いがある。それが、これだけやらせているのだから、「どうしても勝たせなければ」にこだわり、一層しごきはエスカレートするのである。一見「俺についてきたら勝たせてやる」と自信満々に振る舞っているものの、本心は皆に申し訳ないという思いがあり、特に夜寝る時にその思いが強くなる。


 眠れなかったり、夢を見たり、夜中に突然起き上がってあらぬ事を叫び、またすぐに眠っているということも頻繁にあったらしい。今は、この頃の連中が年に一度小生宅に集って同窓会をやる。話は決まってあの頃のこと。鬼の小生をダシにして、大変楽しそうである。この間「本当を言うと、しごくのはしんどいこと」と言ったら「本当ですか、そんなようには思えなかった」と言っていたが、本当の話である。


 ある時、クラスの友人が「水野、馬鹿もええ加減にした方がええぞ」と言うので「何を言っているんだ」と応じたところ「お前が山本富士子さん(初代ミス日本で当時を代表する美人女優)と結婚すると言ってもまだ信じてやる。山本さんも勘違いするかもしれないし、お前と結婚してくれる可能性はないとは限らん。だけど、京大が関学に勝つのはそれよりあり得んことじゃ」と言うのである。「単なるスローガンならいいが、お前は本気でやろうとしてむちゃくちゃしごいているじゃないか。そんなことしていたら、誰もお前を相手にせんようになるぞ」ということなのである。
 それでも、スイッチの入った馬鹿は止まらない。そして、それから11年目に京大は打倒関学を果たすのである。しかし、もしあの時彼らが逃げていたら、18年目の京大日本一はなかった。小生は運がよかったのである。


 1965年のメンバーは、小生にとって宝物のような仲間、友人である。なぜ逃げなかったのだろう。あの頃、小生が打倒関学という夢を語っていたら、誰も相手にしてくれなかったであろう。私は、密かに夢を持つのはいいことだが、それを語るのは意味がないと思っている。あくまで本気で実現を目指すしかない。その志が、一見現実離れしているけれど、彼らは私の本気に共感してくれたと思っている。
 「お前がそこまで思うなら、一緒に付き合ってやろうじゃないか」。これほどありがたい友達はいないのである。志が非現実的なら、現実を変えればいい。そのためには、いろいろ考えて自分たちが変わればいいとやってみるが、やればやるほど自分が何も分かっていないことが分かってくる。


 当時「アメラグ」という言葉があった。まだあまりアメリカンフットボールのことを知らない我が国の人が、あれはアメリカでやっているラグビーという意味でつけた呼び名である。小生もそうだった。本質的にアメリカンフットボールとラグビーの違いが分かっていなかった。実際、私たちは本物のフットボールに触れる機会はほぼゼロであった。
 しかし、関西学院大学だけは、私の師匠の鈴木智之さんをはじめとして、本物のフットボールを学んでおられた。フットボールのルールで向こうはちゃんとフットボールをしているのに、こちらはラグビーをしているのだから、試合になるわけがない。0対50、0対100は当然なのであった。


 そんな中で、コーチ3年目にジョージ・リー氏が突然京大のグラウンドに現れた。自分は(日本人の)奥さんの実家にいて、英会話の先生をしているが、フットボールをしていたし、大好きだから、お前がコーチをするのを助けてあげたいと言うのである。渡りに船と、一緒にコーチをすることになった。
 拙い英語だが、意あれば通ずである。しかし、彼の話を聞くと、われわれのやってきたフットボールは、違ったもののように思えてきた。彼がくれた本にあった「ラン&シュート・オフェンス」をやったら大変効果的。これは一度本物を見なくてはと思うようになった。


 大学院は4年いけるからもう一年と思ったが、当時のアメリカンフットボール部の部長で、小生の指導教官だった小門純一先生に叱られた。「特別な配慮で3年いさせてやったのだ。お前のようなやつをこれ以上大学には置いておけん、卒業せい」ということで、先生のお世話でトヨタ自動車工業に就職させてもらうことになった。1968年のことである。

【写真】京大―関学 関学RB前島(左から2人目)を追う京大のディフェンス陣=西宮スタジアム、1993年