私がアメリカンフットボールを始めるきっかけになったのは、防衛大学校に入学したことである。防大は戦闘機のパイロットになりたくていったのだが、アメリカンフットボールが何かも分からないで、勧誘されるままに入部してしまった。


 当時の防大アメフットは志高く、練習は厳しかった。それまで甘ちゃんだった小生は、泣く泣くやっていたが、そのうちひどい腰痛になってしまった。この腰痛とは、その後ずっと付き合っている。
 しかし「G」がかかって体重が何倍にもなる戦闘機は、腰の痛い者は無理だと言われたので、ショックで防大をやめてしまった。だが、今思うと戦闘機のパイロットにならなくてよかった。今でも親しくしている防大時代の中君は、パイロットの最高峰戦闘機のテストパイロットをやった人である。完成していない飛行機を操縦するのだから、何が起こるか分からない。どんな事態にも対応できる冷静沈着な技術が求められる。彼は頭が良くて、用意周到、心配りができ、なおかつ人を愛するという性格を備えた人物で、何かに没頭すると他のことを忘れてしまう、完全や完ぺきに関心のない小生の馬鹿なところを愛してくれる、尊敬する最高の友人である。


 彼の話を聞くと、最高レベルのパイロットに求められるのは、集中力の持続である。一方、小生は波がある。小生がパイロットになっていたら、死んでいた確率は低くない。好き嫌いと才能の有無は別のことである。
 1年で防大を去り、浪人生活をすることになった。与えられる課題が嫌いで、まともに勉強したことがない小生だったが、年齢の近い弟が2人いて、経済的にも余裕がないのに、小生を浪人させ予備校にも行かせてくれる両親を思ったら、このときばかりは真剣に勉強しようと決心した。しかし予備校には同じ高校の友人が数人いてよく話をするが、話についていけない。


 その予備校は京大に200人を超える合格者を出し、生徒は2000人ほどであった。友人たちは200番から500番。ところが小生の最初の模擬試験の成績は1500番、これでは京大は別世界。えらいことになったと思っていた。しかし友人たちはよく、このクラスは面白くないから出ないとか、他にやりたいことがあるから休むと言っている。それを見て、面白い面白くないは関係ない、京大に合格する以外ない、何を馬鹿なことを言っているんだと思ったら、「こいつらには負けない」と思ってあの一年は本当によく勉強した。人生、後にも先にもこの時だけだが。
 結果として友人は全部落ちて、私だけが京大に合格した。しかし、思えば京大に合格できたのは、防大のお陰と思っている。勝手気ままは、一番本人のためにならないのである。


 小生の高校時代は何をすることもなく、3年間はあっという間に終わってしまった。学校自体に活力がなかった。頑張ろうという雰囲気がなく、運動部にでも入ったらよかったのかもしれないが、しんどいことはやらんが一番。だらしない小生はその空気にどっぷりつかっていたのである。父にはいつも、「お前は、自分を律することができんやつだ」と叱られていた。
 高校入学の時、父がこれからお前は大学受験、時間を大切にしろと当時3000円の腕時計を買ってくれた。1956年のこと。3000円がどれだけの価値か。私は時計は短針だけあれば十分と思っていた。
 その私が防大に入ったのである。冬でも早朝ラッパで起こされると、グラウンドへ走って上半身裸で点呼を受ける。それから一日時間、時間である。高校時代とはえらい違い。秒針を見ながら生きているわけである。


 唯一息抜きできる課業終了から夕食までの2時間余りの間に行うフットボールの練習、これが一番の地獄だった。こういう毎日では自分の気持ちと向き合っている暇はない。思うより先にやる、なのである。
 この一年が私を変えてくれた。やることはやる、やる時はやる。好き嫌い、自分の気持ちは関係ない。これが京大合格をもたらしてくれた。防大のお陰である。
 京大では、防大でのフットボールの印象がよくなかったのでやる気はなかったが、当時の防大はそこそこ強かったので、そこで鍛えたのなら役に立つだろうと呼びに来られた。「あさって試合がある。メンバー不足なので、入部するかどうかは別にして出ろ」という。「それでは試合だけはお手伝いします」と、前日の練習から参加した。
 その日、藤村重美先輩が指導に来られた。一目で先輩の魅力にはまって、入部することにしたのである。


 藤村先輩は年に2、3回しか来られなかった。たまたまあの日に出会えたのは、運命としか思えない。当時の京大フットボールは体育会以前だった。元々メンバーは少ないが、日によっては練習に10人も来ない。防具も十分ではないし、隣で練習しているラグビー部は格好良い。それに比べるとみすぼらしさは歴然。それでも小生は真剣に練習していた。それは藤村先輩に認めてもらいたいという一心からだった。
 その指導は独特であった。全く論理的ではない。心の指導である。ある時練習していると日が暮れて暗くなった。その中でパスの練習がある。選手が「暗くて見えません」と言うと「パスは心眼で捕るんじゃ」ということがあった。この話をすると皆笑うが、これは正しいことである。それが分かるまで、自分を高めないとならないだけなのである。


 練習が終わると、皆をグラウンドに座らせ話をしてくれる。その話が抽象論で長い。理屈屋の京大生にとっては、苦痛な時間で早く終わってくれないかなと思っている者が大半だが、小生だけは至福の時で全身電気を走らせて聞く話であった。3回生のある日、その話の中で、「男というのは弱いチームで負け戦中に孤軍奮闘、獅子奮迅の働きをする。これが本物の男である」と言われて、スイッチが入ってしまった。以来藤村先輩の後を追いかけてきたが、いまだに追い付いたとは思えない。


 藤村先輩は京大時代「関西学院大学にはフットボールをやらせてもらえない、これでは男が立たん」と高校教師になり、フットボールチームを作り、7年目に関西学院高等部の連勝を204でストップした。当時の高校選手の藤村先輩への心服、小生の先輩への憧れ。まさにカリスマ、真の指導者であり教育者であった。こういう人に巡り会うことほど幸せなことはない。
 京大でも藤村先輩の人格には皆一目置いていたが、スイッチが入って人生がそれたのは小生だけ。巡り会った幸せを感じ取る感性を持っていたことが小生の自慢である。
 教えるというのは教える人のことではない。その中から教わる者が感じ取ることである。大切なのは鋭い感性、鈍感な人間は駄目なのである。ここに小生のフットボール人生の原点がある。

【写真】分列行進する防衛大の学生たち=1957年、神奈川県横須賀市