先日、共同通信の宍戸博昭さんから電話をいただいた。京都へ行くので、話をしたいというのである。宍戸さんは昭和50年代前半、無敵だった日本大学を代表する名選手だった人で、卒業後は記者としてアメリカンフットボールを支援していただいた、この世界の恩人の一人でもある。


 当時の日本大学については、篠竹幹夫監督も含めさまざまな方から伺っていたが、フットボールでは飛び抜けた存在であった。宍戸さんとはよくお話しさせていただいたが、今思うと京大が対象であり、日本大学の事を伺ったことはない。
 これはよい話が聞けると、早速お目にかかることになった。宍戸さんは暑い中、それもひときわ暑い京都へ来てくれた。初めは1時間もあればということだったが、とてもそれでは終わらないと思った。話は4時間にもなった。今の日本フットボール界では、私の考えは古い。昭和のフットボールと言われることもある。確かにその通りだと思うが、時代を超えたフットボールの真髄について、話は盛り上がった。


 コラムを書けと言われたので、どうしようかと思ったが、お受けすることにした。しかし、初回から大失敗してしまった。9月9日朝に原稿をファクスすると約束したので、8日の夜に仕上げて、翌朝送るばかりにして寝た。9日朝に熊本に行く飛行機に乗るため、車で空港へ向かったが、高速に乗ったところでファクスをするのを忘れていることに気付いた。空港について電話をしようと思ったら、あちらからかかってきた。平謝りに謝って、水曜日の朝にファクスすることにしてもらった。


 こういう失敗は年を取ったせいではなく、若い時からである。何か一つやると、他を忘れてしまう。そう度々ではないが、困った性格である。
 熊本からレンタカーで約2時間。宮崎を訪れるのは、1982年に試合中の負傷で亡くなった故藤田俊宏君の墓参のためである。あの時は、このような事故が起こらないようにするのが監督の役目、これでは失格、辞めようかとも思った。
 しかし、彼はフットボールをするために二浪して京大へ来た。アスリートで、実にきれいな走り方をする。2年連続で1000ヤードラッシャーになった松田明彦君と同学年でRBのセットであったが、当初はスピードランナーの藤田君がTB、松田君はFBであった。そして、2度の骨折を乗り越え副将として「打倒関学」の先頭に立っていた。そう思ったら、ここで逃げるのは彼に申し訳ない。彼の遺志を全うするために、とことんやるのが筋ではないかと考えた。


 それまでは、自分の志としてやっていたから、打倒関学を果たしたら結婚しようとか、まともな仕事に就こうと思っていた。しかしこの時、これでは駄目だと思った。藤田君は、フットボールに命を捧げてくれた。自分がただ好きでやっていてはフェアじゃない。自分も人生をフットボールに捧げなければ、と思った。篠竹監督も、明治大学の野崎和夫監督も人生を捧げておられる。自分程度の人間が、片手間でやっていて勝てるわけがないのである。しかも京大である。自分はどうなってもいいから、これからは自分の都合でやるやらんは言うまい。チームが必要と思う限りやると決めた。
 それから、勝つことの困難が半減した。このことはまた別稿で書くとして、京大の日本一は藤田君が導いてくれたと思っている。


 あれから32年目。近年は毎年訪問しているが、初めの頃は本当に勇気が必要だった。お父さん、お母さんの顔を見るのがつらかったのである。しかし、最近はご両親の素晴らしい人柄に触れることで、逆に癒される思いがする。帰るときはいつも、来年も来たいと思いながら見送っていただいている。
 以来30年監督を続けてきたが、思えばチームというより若者気質もずいぶんと変わった。あの頃の上級生は思い詰めた顔つきをしており、よく「修行僧」のようだと言われたものである。


 1990年代半ばから学生の体育会離れが顕著になった。それで厳しいことを求めていけば、選手はいなくなってしまうと、かなり選手に迎合するようになったが、とたんに甘くなった。その結果が、2005年の事件につながったと思う。これでは駄目だと、元に戻そうとしたが限度がある。メンバー不足で、まだ一人前になっていない下級生を試合で使わなくてはならない。だからやることを限定し、その代わりそれだけは強豪相手にも一応はやれるレベルにする。


 しかし、チームとしてやれるのはそれだけ。相手や状況に応じて戦術を柔軟に使い分けることなどまったくできない。だから、勝とうが負けようがこれが自分たちの戦い。たとえ勝てなくても、最後まで戦い抜け。これでは、よほど運がよくて相手が気を許さない限り、まともなゲームはできない。小生の嫌いな「根性フットボール」をやらざるを得なかったのである。もちろん、根性を否定するつもりは毛頭ない。根性は不可欠、全ての基礎であるが、より重要なことは、その際どんな具体論を築くかということである。


 メンバーがいないと、具体論が実行できない。コーチとしては、はなはだ面白くないのである。それなら、強豪に勝つのはスローガンだけにして、対等の相手に対しては具体論を考えたらいいのかもしれない。しかし、それでも数人の思い詰めた顔をしている上級生を見ると、それはできないのである。たかがスポーツ、されどスポーツ。スポーツをする意義は多用であると思うが、小生とともに歩んでくれた京大の流儀については、これから述べていくことにしたい。
 今回は上述の大失敗で、急きょ書き直したものである。

【写真】2005年の事件後、関西学生リーグに復帰し初戦を白星で飾った京大の選手たち=2006年、万博フィールド