今季社会人Xリーグのパス記録を大幅に塗り替えた、IBMのQBケビン・クラフトがシーズン開幕前にこう言っていた。「ブラッド・ブレナンをはじめとした先駆者たちが日本でプレーする道を作ってくれたおかげで、今の自分がある」。Xリーグで10季プレーし、日本のフットボール界に多大な功績を残したWRブラッド・ブレナンを紹介する。


 ▽兄との二人三脚
 ブレナンは4人兄弟の次男として米国のサンフランシスコで育った。13歳の時にフットボールを始め、聖フランシス高校ではフットボール、バスケットボール、野球と3競技をシーズンごとにプレーした。その中で自分に最も合ったスポーツと断言したのがバスケットボールだ。司令塔としてチームをけん引したブレナンは、チームをカリフォルニア州制覇へと導いている。「背の高い黒人選手ばかりのチームを倒していくのは快感だった。でも、背が低くて大学でのプレーは難しかった」という。
 フットボール選手としても身体能力が傑出しているわけではない。むしろ彼より優れたアスリートは日本にも山ほどいる。しかし、彼は高校時代から地区のベストWRとしての地位を確固たるものにしていた。これを支えたのが当時カリフォルニア大ロサンゼルス校(UCLA)のWRとして活躍していた兄のブレントの存在だ。ブレントは毎日つきっきりで指導し、最新のテクニックや知識をたたき込んでいった。


 ▽強豪アリゾナ大へ進学
 それでも強豪大学からの推薦は得られず、一般入部で全米大学体育協会(NCAA)1部のアリゾナ大へ進学する。アリゾナ大は、NFL選手も輩出する強豪校だ。最初はそのレベルの高さに圧倒された。しかし、地道に努力を重ねめきめきと頭角を現す。3年時にはスターターに定着して、その年は10勝1敗で、ホリデーボウルを制覇。アリゾナ大は全米で4位にランキングされた。しかし、ブレナンにNFLから声がかかることはなかった。


 ▽激動の2年間
 大学を卒業後、NFLへの夢をつなぐために、アリーナフットボール(AFL)、カナディアンリーグ(CFL)、そしてNFLヨーロッパのトライアウトに挑戦したが、スカウトの目には止まらなかった。それでもフットボールをあきらめきれずにたどり着いたのが日本のXリーグだった。米国人コーチの紹介でオンワード(現ノジマ相模原)でのプレーを決意する。日本語が全く話せない中、徐々に異国の環境に適応していったが、プロフットボールへの夢を捨てきれなかった。1年ほどプレーした後、カナダでトライアウトを受け、CFLのBCライオンズに合格する。だが彼がCFLのフィールドでプレーすることはなかった。入団前に大きなけがをしたのだ。その後、カリフォルニアに戻り、半年間リハビリをしながら友人が経営するバーでウエイターをして生計を立てた。そして、傷が癒えて向かった先は日本だった。オンワード時代に知り合った富士通のカート・ローズヘッドコーチ(現慶大攻撃コーディネーター)に誘われ、2003年に再び日本一を目指すチャレンジが始まった。


 ▽日本一への思い
 07年の12月1日、横浜スタジアムのロッカールーム。来日した家族に囲まれてぼう然とする、ブレナンの姿があった。日本社会人選手権(ジャパンXボウル)進出をかけた試合で、勝利は目前だった。残り1分を切った場面でひざの前十字靱帯を断裂。復帰には1年近くかかるため、彼は引退を決意して翌年に米国へ帰国する。しかし、「日本一のタイトルへの未練が捨てきれなかった。悩んだけれども後悔したくなかった」と、その年の秋に再び日本へ。この時30歳。日本でプレーし続けることについて、本人だけでなく家族もこの先のキャリアに不安を抱いていた中で下した決断だった。


 ▽誰よりもファンを大切に
 素手での捕球にこだわり、グローブをつけずにプレーしていた。「小さいころからずっと捕球範囲の広い手で捕ることを意識してきた」。さらに、DBとファイトする意識も日本人プレーヤーとは明らかに異なっていた。「リリースの瞬間はDBとの戦争なんだ。日本のレシーバーはその意識が欠けている」と話す背景には、アリゾナ大でのある出来事がきっかけとなっていた。「1年時の練習で、クリス・マカリスター(元レイブンズCB)に激しいバンプを受けて、そのまま地面にたたきつけられた。今まで味わったことのない屈辱だった」と振り返る。
 プロリーグの必要性を説いてきた。「子どもが試合を見てあこがれるようなプロリーグの存在が必要不可欠。ファンにもっとエキサイティングな試合を見せなければならない」。チームメートはもちろん、誰よりもファンを大切にして「ファミリー」と呼んだ。チームを愛し、日本のフットボール界の発展を心から願った“プロフェッショナル”だった。


 ▽「願えばかなう」
 11年の日本社会人選手権は、オービックと富士通の対戦となった。ブレナンはこの大舞台で9回捕球128ヤード獲得と最高のパフォーマンスを披露する。第4クオーター残り26秒でゴール前11ヤード。同点のTDを狙った富士通のラストプレー。QB出原章洋がエンドゾーンのブレナンをめがけて投げ込んだパスを、オービックのLBがインターセプト。日本一を目指した青い目の「サムライ」の10年にわたる挑戦は終わった。
 4月29日、サプライズで開かれたお別れ会には、富士通の選手を中心に日本でゆかりのある人々が集まった。この時は思わず涙を見せていたが、空港では気丈に振るまい、笑顔で旅立っていった。現在、ブレナンはオレゴン州立大のWRコーチを務めている。好きな言葉は「If you can dream it,you can do it(願えばかなう)」。日本での思い出を胸に、新たな夢に向かって走りだしている。


※写真提供:鷹羽金蔵、小座野容斉、ブラッド・ブレナン、富士通フロンティアーズ

【写真】富士通のエースWRとして活躍したブラッド・ブレナン=撮影:Kinzo Takaba