アメリカンフットボールのサイドラインには、選手やコーチ以外にもさまざまな職業の人がいる。今回はその中で、大切な役割を持つドクターを取り上げる。世間一般では何かと危険なスポーツという誤った認識を持たれがちなアメフットの中で、選手を支え、試合を成立させる大事な役割を担っている。


 清泉クリニック整形外科(東京都杉並区)の院長・加藤敦夫さんは、社会人アメフット・XリーグのLIXILディアーズ、高校アメフットで足立学園のチームドクターを務める。
 加藤さんは1972年、愛知県の出身。東海高校から関西医科大学に進んだ。父親が耳鼻科医で、「『医者になれ』という言葉はなかったのですが、なんとなく暗黙の強制はありましたね」。入った後に耳鼻咽喉科に行けと言わないようにと、父親にくぎを刺しながら医師への道を選んだという。


 10代の加藤少年にとって、医師への道以上に憧れたのがアメフットへの関わりだ。中学の頃から「(日大フェニックスと関学大ファイターズという)赤と青の対決、東海(辰弥)さんの京大をテレビで見て、パス攻撃の日大のファンになりました」。
 中学高校はテニス部だったが、日大・篠竹幹夫監督の著書「汝 不死鳥たれ」に、未経験者でも恐れることはないと書いてあったのを信じ、「日大の医学部に進学し、フェニックスに入ってフットボールをやろうと思っていました。無知でした」と笑う。


 日大の試験前に、推薦で関西医大への進学を決めたが、入学願書には「『スポーツドクターをやりたい』と書きました。アメフットが念頭にありました」という。


 関西医大にはアメフット部がなかったが、入学早々に関西学生リーグの春のオープン戦を観戦に行った。京大対神戸大だったというが「それまでテレビでしか見たことがなかったので、いきなり『バキ、ボキ、ゴキッ』というのを間近で見て『これは、とても無理だ。やらなくてよかった』と思いました」と笑う。


 選手になることは諦めても、アメフットに関わりたいという気持ちは変わらなかった。卒業後の1997年に日大の医局に就職した。希望して、先輩医師について鹿島ディアーズや日産パルサーズ(いずれも当時)にドクターとして通うようになった。


 10代の頃憧れていたフェニックスには、篠竹監督が勇退後、内田正人監督の体制下で、日大の選手は日大の病院で診察するということになった2003年から先輩医師とともに正式にチームドクターとして加わった。
 これまで関わったチームは片手を軽く超える。勤務先の病院に通院してきた選手も含めれば、数えきれない選手の治療やリハビリに関わってきた。


 アメフットだけではない。現在も、一橋大のラクロス部、バスケットボールBJリーグの琉球ゴールデンキングスで、メーンではないがチームドクターを務めている。
 ゴールデンキングスは、ホームの沖縄の試合は現地の医師がいるが、アウェーの東京の試合などは今でも手伝いに出る。


 加藤さんは「現場が教えてくれる」という。医師となって1年目から先輩について行く形で、アメフットの現場を経験した。勤務先の病院での業務と、試合というスポーツの現場での業務。「2本立てで並行してずっとやってきたことが、今では財産です」という。


 チームドクターといっても、それぞれのレベルでやることは違ってくる。Xリーグのチームの場合はトレーナーが常駐でしっかりしているので、日常の健康面での注意や練習後の体のケアなどは任せることができる。


 「先生、けが人出ました。診てください」と言われてからが出番で、病院で診察、治療がメーンの仕事だ。
 しかし、高校のチームでは指導者的な側面も加わる。「多機能でマルチタスクになっておかないといけないので」。足立学園では、普段から生徒と積極的にコミュニケーションを取っている。試合前のハドルにも参加し、毎回「水はやる前から飲んでおけ」「しっかりストレッチしろよ」と声をかける。


 柔和な外見の加藤さんだが、「場合によってはコーチより怖いし厳しいですよ」。日頃からセルフケアをしてない選手が、足をつったり肉離れをすると怒る。しっかり水分補給をし、ストレッチをする。そういった準備で予防できる場合も多いからだ。
 選手だけでなくコーチとのコミュニケーションもしっかり取っており、選手の出場判断でも「加藤が大丈夫というなら」と信頼が厚い。「チームに近い立ち位置で、しんどいけれど、楽しくやらせてもらっています」。チームへの関わりが強いためか、専門誌には「コーチ」と記載されたこともあるという。


 加藤さんの思い出の一つは、日本に遠征したアメフット米国チームのドクターを2回務めたことだ。1度目は2007年のワールドカップ(現世界選手権)川崎大会。米代表チームは当初本国から医師を帯同する予定だったが、急きょ来ないことになったという。
 国際アメリカンフットボール連盟(IFAF)の規定では、チームドクターがいなければ参加資格を失う。急きょ医師を探した米国チームが、人づてに加藤さんに声をかけてきたのは3週間前のことだった。


 当時、病院での勤務はフルタイムではなかった。日大や鹿島のチームドクターからも前シーズンで退いており引き受ける上で問題はなかった。
 英語が不安だったが、米国から一緒に来日するトレーナーの一人が日本人で、通訳ができる人間が複数いるということもあって快諾、2週間を米国代表ドクターとして過ごした。


 加藤さんが今でも忘れられないのが、等々力競技場での日本対米国の決勝戦。この試合の場内放送を担当したスポーツキャスターの近藤祐司さんが、米国チームのサードダウンになると「業務連絡、クラウドノイズをお願いいたします」とアナウンスした。
 米側サイドラインで「日本が『打倒アメリカ』で、一体となっているときに、俺はこんなところにいて『非国民だなあ』と思いました」と笑う。


 この時は米国代表に深刻な負傷者は出なかったが、問題は2009年のノートルダムジャパンボウルの時だった。
 名将ルー・ホルツ氏が率いて来日したノートルダムのOBから選抜されたチーム「レジェンズ」は、チームドクターは帯同していたが、日本の医療機関との連絡役を務められる日本人医師を探していた。実績のある加藤さんに声がかかり、喜んで引き受けた。


 「この時は大変でした」。名門大出身だけあって、2007年の米国代表と比べても、このチームの選手はサイズが大きくパワーもあった。しかし卒業して間がなかった2007年代表とはコンディションが違った。
 普段は「消防士です、救急救命士です、不動産業です」と、フットボールから離れて何年も経っていた選手が多く、実情は「ちょっと練習すると、すぐ肉離れ。野戦病院のようでした」。日本でも名前が知られたQBトニー・ライスも負傷欠場し、セーフティーの選手がQBをプレーした。パス攻撃がほとんどなかったのは、そういう理由だったそうだ。


 加藤さんの一番の夢は、森清之ヘッドコーチの間に日本代表のチームドクターになることだという。
LIXILにチームが変わるときに再びチームドクターになった加藤さんだが、いったん鹿島を辞める時に「『ジャパンのドクターは加藤で』と森さんに指名されるように頑張ります」とあいさつしたそうだ。「『非国民』の前歴があるから難しいかな」。冗談交じりに話すが、その目は真剣だった。

【写真】診察室の加藤ドクター=撮影:Yosei Kozano