日本の大学生や高校生の中に、米国のカレッジや高校でアメリカンフットボールをプレーしようという動きが少しずつ広がっている。
 4年連続高校日本一の早大学院高でRBとして活躍し、高2でU―19(19歳以下)日本代表にも選ばれた高田ジェームス選手も、日本の大学に進まず、この秋から米NCAAの強豪カンファレンス、パック12に所属するユタ大学に進学するという。今回は、今から20年前、誰にも頼らずに一人で渡米し、米のカレッジフットボールに挑戦した日本人の話を書きたい。


 窪田豊彦さん(39)は1975年東京都に生まれた。生まれついて体が大きく、柔道選手だった父の影響で小学校から柔道を始め、中学時代にはバレーボール部と柔道部で活躍した。
 当時すでに身長は180センチを超えていたという。都立石神井高校に進学後は柔道部とアメリカンフットボール部を掛け持ち。しかし、高校のアメフットは人数が少なく練習にならないため、近くの早大学院高に練習させてほしいと直談判に行ったこともあるという。傷害保険の関係などで、練習には参加できなかった。この頃から窪田さんの中には、アメリカへ行って本場でプレーしたいという望みが育っていた。


 高3の1993年9月、窪田さんは望みをかなえるために行動に出た。日本で進学せずに米国の大学へ行くと高校の先生に告げ、自分で図書館で大学の住所を調べて、連絡を取ったという。インターネットも電子メールも無かった時代だ。
 連絡手段は手紙と、おそるおそるかけた国際電話だった。窪田さんの熱い思いに答えたのが、米インディアナ州にある、シカゴからもほど近いバルパライソ大学だった。窪田さんは高校卒業後の94年6月、単身で渡米した。


 新学期が始まる9月より早く、夏休みからフットボールチームは始動する。窪田さんはチームのつてを探して大学のある街のスポーツジムへ行った。大学も街も小さかったためか、幸運にもそこで先発クラスのWRと知り合いになることができて、チームのコーチを紹介して貰い直談判、入部が決まったという。
 その時点で窪田さんは、米国との格差を知ることになる。自分よりも細いそのレシーバーは、ウエートトレーニングではるかに重い重量を挙げていた。


 バルパライソ大学のフットボールチームは、当時NCAAのDiv-1AA(実質的な2部)で中堅から下位の実力だった。全米で150~200位程度で、決して名門校でも強豪校でもない。だが、夏のキャンプが始まり練習の厳しさに音を上げそうになった。
 渡米前、アメリカンスポーツの「明るい笑顔で練習をしている。なのに強い」という世界にあこがれた窪田さんだったが、現実は全然違った。宿舎で、シャワーを浴びながら翌日の練習が怖くて泣いた。涙が止まらずに「自分はこんなに弱かったのか」。人生で味わった最初の挫折だったという。


 「毎晩、宿舎の前に車が止まります。窓から見ていると、大きな荷物を持った同級生が車に乗り込んでいく。練習がきつくて夜逃げする新人が、親に電話をして迎えに来てもらっていました」。親への連絡どころか、窪田さんには米国に知り合いすらいない。逃げ場はどこにもなかった。


 日本では守備ラインだった窪田さんは当時184センチ、95キロ。20年後の現在でも20歳前でこのサイズなら十分に大型プレーヤーとして通用する。「日本で、自分よりも大きな選手と当たったことはなかった」窪田さんだが、いかに2部校とはいえ、米国の攻守ラインでは自分よりも小さな選手はいない。日本で培った能力がほとんど通用しない世界で窪田さんはもがいた。


 一つだけ通用したものがあった。それは窪田さんの食欲だった。父親のしつけが大変厳しく、「出された食事は残さずすべて食べろ」。小学生の頃から、兄と2人で焼きそば10人前を平気で平らげていたという窪田さんの食欲は米国に通用した。
 練習で疲れ果てた選手たちが食事をとっている中、窪田さんの皿に盛られた大量のパスタやパン。「あいつは一体誰だ」と、選手だけでなくコーチ陣の目にもとまったという。


 出場資格のない「レッドシャツ」登録の期間に、持ち前の食欲とウエートトレーニングでパワーアップ、105キロになった。
 3年目の96年には控えのDEとして初めて公式戦に出場。4年目の97年には6試合で先発し13タックル、1QBサックも記録した。現地の新聞にも「合衆国でプレーする、唯一の日本人フットボーラー」と紹介された。


 それでも窪田さんは自身の選手生活を、挫折と振り返る。98年、窪田さんは脚部を故障した。NCAAの規定で選手生活最後のシーズン。前年多少の実績を残したとはいえ、必要不可欠の戦力だったわけではなく、この段階での故障は選手としての終わりを意味した。
 窪田さんは、トレーナーの説得を振り切ってチームから離脱した。シーズン最後のホームゲーム。試合前の選手紹介で、大観衆の声援の中、チームメートが名前を呼ばれるのを、スタジアムの外で聞きながら、窪田さんは涙を流した。


 窪田さんは帰国後、アメフットから離れ、新たなチャレンジとして打撃系格闘技「K-1」に進む。スター選手、アンディ・フグに見込まれ、厳しいトレーニングを経てリングで活躍する。
 K-1引退後の2005年、東京都内に英会話スポーツ教室「e-kids(イーキッズ)」を開設。スポーツか勉強かの二者択一ではなく、体を動かしながら英語を聞いて話すことで、「頭だけでなく心でも理解する」ことを目指す。
 あいさつや礼儀作法も重視しており、「根性を鍛える英会話スポーツ教室」がキャッチフレーズだ。「英会話はツールであって目的ではない」。自身の経験をもとに、子どもたち、さらに親との「格闘の日々」を送っている。


 そんな中でも新たなチャレンジは忘れていない。「e-kidsから将来オリンピック選手を出しますが…第一号は俺です」と、2013年春にはソチ冬季五輪ボブスレー代表チームのトライアウトに挑み、選に漏れた後も、年末の大会に出場し3位となった。


 窪田さんは、この記事が掲載される頃、子どもたちとともにアメリカにいる。「e-kids USA キャンプ」として、フラッグフットボールを中心に子どもたちにさまざまな体験をさせる。
 過去2年はカリフォルニアだったが、3年目の今年、原点であるインディアナ州を拠点に選んだ。米国の子どもたちと一緒にNFLシカゴ・ベアーズの選手の指導を受けたり、母校バルパライソ大も訪問する予定だ。


 単身で渡米し、本場のアメフットに挑んだのがちょうど20年前の夏。窪田さんは「全力を出したつもりでも、今思えばもっともっとできた。足りなかった」という。そんな後悔を自分のスクールの子ども達にはさせたくない。そして自分たちが住んでいる地球はこんなにでっかいんだと感じてほしいというのが、キャンプを続ける原動力という。


※写真提供=窪田豊彦さん

【写真】渡米前と渡米後(右)の窪田さん