先週のトム・ブレイディの来日は、アメリカンフットボールファンに大きな「熱」をもたらした。
 わずか2日間の滞在ではあったが、久しぶりにNFLのスーパースターが公式に来日してファンと交流したことは素直に喜ばしい。


 過密なスケジュールのなか、高校生、大学生へのクリニックやメディア対応、相撲部屋訪問にスポーツ用品の新作記者発表などを精力的にこなし、多くのファンを魅了した。


 そんなブレイディを間近に見たスポーツメディアが口をそろえて言っていたのは「オーラがある」という感想だ。
 数えきれないほどのアスリートを取材してきた百戦錬磨の記者たちをしてそこまでの印象を抱かせたのはさすがだ。


 確かに王者としての風格やスター性は彼の一つひとつの言動の中に見てとることができた。だが、筆者はそれとは対照的にまだ若く、ベテラン選手に囲まれておとなしくしていた頃のブレイディの姿を思い出さずにはいられなかった。


 筆者が初めてブレイディを取材したのは2001年シーズンのAFCチャンピオンシップゲームだった。彼がペイトリオッツの先発QBとして頭角を現した年である。


 当時のブレイディは2年目。ミシガン大学でスターターを務めたこともあったが、ドラフトでは6巡指名と評価が低く、NFLでは無名の存在だった。
 それが、先輩QBドルー・ブレッドソーの故障によって先発の座が転がり込んでくる。ブレイディにとっての大きな転機だった。


 ほとんど実績がなかったブレイディだったが、コントロールのいいパスワークでペイトリオッツを上昇気流に乗せた。
 今ほどのピンポイントな正確さはなかったものの、ショートからミドルレンジのパスを丁寧に投げるスタイルはビル・ベリチック・ヘッドコーチを満足させるものだったのだろう。


 ペイトリオッツは11勝5敗で地区優勝を飾り、AFCの第2シードとなった。初戦のディビジョナルプレーオフでは大雪の中でレイダーズを破るのだが、この試合中にQBサックを受けたブレイディがファンブルし、レイダーズにボールを押さえられる場面があった。
 第4Q 残り1分47秒でペイトリオッツは3点のビハインド。万事休す、となるはずだった。


 しかし、ビデオプレーの結果、ブレイディが行っていた胸の前でボールを抱えて上下に揺らすアクション(タッキング)はパッシングモーションの一環と判断され、ターンオーバーではなくパス失敗の判定となった。
 九死に一生を得たペイトリオッツとブレイディは、このドライブを同点FGで終えてオーバータイムに持ち込み、最終的に逆転勝ちを収めたのである。


 これはのちに「タックルール」と呼ばれて悪評を得たが、現在では廃止されている。タッキングをしながらボールを落とした場合はファンブルとみなされる。


 レイダーズに勝ったペイトリオッツは翌週にピッツバーグに乗り込み、第1シードのスティーラーズと対戦した。
 スティーラーズの圧倒的有利を言われた試合だが、相手のミスに乗じたペイトリオッツが完勝してスーパーボウルへと駒を進めたのだった。


 このAFCチャンピオンシップでは、実はブレイディがほとんど活躍していない。前半に故障してサイドラインに下がり、ブレッドソーがリリーフ登板したからだ。
 少し話がそれるが、この時いかにスティーラーズ有利とされていたかを示すエピソードがある。当時はチャンピオンシップの翌週にスーパーボウルが行われていた。筆者もAFCチャンピオンシップをピッツバーグで取材して、その足で開催地であるニューオーリンズへ向かった。


 そこで気づいたのは、NFC代表であるラムズのグッズは大量に溢れているのに、ペイトリオッツのものがほとんど見当たらない。
 ラムズは「NFC Champions」と描かれたTシャツが売られていた。すなわち、スーパーボウル用に新たに制作されたものだ。ところが、ペイトリオッツの同様のものが出回ったのはスーパーボウルウイークも後半にさしかかったころである。


 これはグッズメーカーの多くがスティーラーズ勝利を確信して、ペイトリオッツの製品を作っていなかったからだ。
 ペイトリオッツのアップセットでメーカーは大慌てでグッズを量産したに違いない。


 さて、2001年と言えば「9・11」、すなわちアメリカで同時多発テロの起きた年である。テロが起きたのはNFL開幕週のマンデーナイトゲームが開催された翌朝だった。
 NFLは第2週の試合をすべて延期することに決め、予定されていた試合は第17週に行った。また余談だが、この影響を受けたのがスティーラーズだ。スティーラーズは第2週に新設されたハインツフィールドで初の試合を行う予定だった。


 しかし、延期によりすべての記念イベントが中止。この試合を取材する予定だった筆者も、アメリカ行きのフライトがキャンセルされたために渡米を断念せざるを得なかった。


 AFCチャンピオンシップの取材の際に、ハインツフィールドのこけら落とし記念のストラップを購入したのだが、悲しいかなそこには本来試合が行われるはずだった9月16日の日付が入ったままだった。


 レギュラーシーズンがずれ込んだために、プレーオフからスーパーボウルの日程もすべて1週遅れとなった。
 ところが、試合会場となったスーパードームはすでに別のイベントの予定が入っていた。NFLは主催団体や地元のホテルと交渉を重ね、スタジアム使用権を譲渡されるとともにキャンセル料を負担して1週遅れのスーパーボウルを実現させたのだった。


 この反省から、現在NFLではカンファレンス決勝からスーパーボウルまで2週の間隔をあけるようにし(その間にプロボウルが行われる)、さらにスーパーボウルの予定の1週間後の日程でも開催地を抑えるようにしたとされる。


 スーパーボウルでもまたペイトリオッツはアンダードッグ(戦前の不利の予想)だった。ラスベガスのオッズはラムズ有利の14点。つまり、これだけの差をつけてラムズが勝つと予測されたのだ。
 すでにこの頃のブレイディは先発QBとして地位を確立しており、メディアとのインタビューセッションでも特別扱いを受けていた。


 しかし、その際に見せた彼の表情はまだ硬く、現在のような自信満々のものではなかった。スターターという大役の中で必死にもがいている印象を受けたものだ。
 戦前の予想に反して試合は接戦のまま終盤に突入し、最後はブレイディが次々と際どいパスを成功させる奇跡的なドライブでFGを成功させ、初優勝を飾った。


 驚いたのは試合後の会見だった。この試合でMVPを獲得したブレイディはまるで別人だった。表情には余裕がうかがえ、殺到するメディアの質問に答える声には自信がみなぎる。
 この試合を機に彼はオーラを身にまとったのかもしれない。


 テロにより、アメリカの愛国心が強く意識された年に、「愛国者」のニックネームを持つチームがNFLを制するという劇的な幕切れだった。この立役者となったブレイディには、やはりスーパースターとしての運命が宿されていたのかもしれない。


 その後のブレイディの活躍は説明するまでもない。「過去最高」と断じるのは好きではないが、そう評価されるのは十分に理解できる。
 こうしたスター選手をリアルタイムで見られることを幸せに思いたい。

【写真】2002年シーズン第1週、スティーラーズのハンプトン(98)が突進してくる前に、パスを投げるペイトリオッツのQBブレイディ(ロイター=共同)