「スティールネーション」が深い悲しみに包まれた。ピッツバーグ・スティーラーズの2代目オーナーであり、1970年代のチーム黄金時代を築いた最大の功労者とされるダン・ルーニーさんが4月13日に死去した。84歳だった。


 高潔にして偉大、それでいて謙虚な人物だった。名門チームのオーナーには似つかわしくない小さな家に住み続け、球団施設内では選手も使うカフェテリアで食事をとった。
 オフィスには毎日自分で車を運転して通っていたという。


 筆者も何度かお会いしたことがあるが、気さくでおごったところが全くない好々爺の印象が強い。
 試合前にはフィールドに出て選手やコーチだけでなくメディア関係者とも言葉を交わし、ゲーム終了後はロッカールームで選手を迎える。


 メディアの使うプレスボックスにもよく顔を出していた。ボディガードや秘書を連れて歩く他チームのオーナーも少なくないが、ルーニー氏はそれこそ「ひょっこりと」一人で現れて、誰と話すでもなく後ろでじっと立っている。
 細身で小柄な体格からは威圧感はなく、むしろこちらから話しかけたくなるような親近感を感じさせる方だった。


 オーナー(正確にはスティーラーズは「球団代表」という言葉を使う)としての権限は絶大なものがあった。
 32チームがそろうオーナー会議でも、ジャイアンツを所有するマラ一家と並ぶ二大勢力の一つで、「ルーニーが反対する議題は決して可決されない」とまで言われた。


 現在のNFLではヘッドコーチ(HC)を採用する際に少なくとも一人はマイノリティー(アフリカ系アメリカ人やヒスパニック系などの社会的少数者)候補に入れなければならないという規約がある。これはポール・タグリアブー前コミッショナーの肝いりで実現したものだ。


 タグリアブー氏はルーニーさんを規約整備の担当者に任命した。ルーニーさんが人種差別に反対する姿勢の持ち主だったこともあるが、それ以上にルーニーさんを味方につけることで新規約を成立させたいとの狙いがあった。それだけ彼の発言力と権限が大きかったということだ。
 タグリアブー氏はもくろみ通り法案を可決させ、新規約は「ルーニールール」として知られるようになった。


 ロジャー・グッデル現コミッショナーの就任の際もルーニーさんの強力な後押しがあった。グッデル氏はルーニーさんをメンター(指導者)と仰ぎ、常に助言を求めていた。
 政界にもパイプを持ち、バラク・オバマ前大統領とは彼がまだイリノイ州議会議員だったころから親交があった。大統領候補だったヒラリー・クリントン氏とも常に電話で連絡をとる間柄だった。
 2008年からは息子のアートⅡ世にチームの実権を譲り、それを機にアイルランドの大使として赴任したこともあった。


 父のアート・ルーニー氏がスティーラーズを創設する前年の1932年に生まれ、子どものころからボールボーイをするなどチームに関わってきた。
 大学時代にはすでに選手との契約をまとめる重責を担っていたようだ。アート氏も彼を後継者として教育するべく、オーナー会議に同行させて帝王学を学ばせた。


 初期のスティーラーズは勝ち越しもままならない弱小チームだった。鉄鋼を主要産業としていたピッツバーグの経済は景気に左右されることが多く、当時は「お荷物球団」の移転話も幾度か持ち上がったそうだ。
 しかし、頑としてそれに反対したのが若きルーニーさんだった。鉄工所で働く労働者の心のよりどころとしてのプロフットボールチームを死守しようと努めたのだ。


 独裁者的な権限を持っていたアート氏は、身内でチームの首脳陣を固めたがった。その方針に逆らって、ルーニーさんは1969年に外部から新HCを招いた。それがのちに70年代だけで4度のスーパーボウル優勝をもたらすことになるチャック・ノールである。
 この黄金時代が現在のスティーラーズのリーグにおける地位を確立したことは間違いない。それはまたルーニーさんの存在感を強めることにもつながった。


 ハインツフィールド内の彼のオフィスに通じるホールには六つのビンス・ロンバルディートロフィーが飾られている。ルーニー氏はそのホールを歩くのが何よりも好きだったという。


 スティーラーズとNFLとピッツバーグを愛し、またそのすべてから愛されたルーニーさんが旅立った。
 今頃は天国でお父さんと再会し、ノールHCや同郷のアーノルド・パーマーさんたちと談笑しているかもしれない。独特のしわがれた、それでいて温かみのある声で。

【写真】2000年12月、当時のスティーラーズの本拠地「スリーリバーズスタジアム」の最後の試合を取材した筆者(右)とダン・ルーニーさん=写真提供・生沢浩さん