ペイトン・マニングがフィールドを去る。


 稀代の名パサーとして18年間NFLで活躍した、ブロンコスのQBマニングが3月7日(日本時間8日)、チームの本拠地デンバーで記者会見し、正式に現役引退を表明した。
 予想していたことなので驚きはしない。むしろ、体力の衰えをごまかしてまで現役を続行し、晩節を汚すことがなかったと安心する思いだ。


 彼の功績は今さら説明するまでもない。NFLでただ一人リーグMVPに5回選出された選手で、オールプロに選ばれること7回。パスは獲得距離やTD数など、主だった部門でのNFL記録を保持する。


 その反面、「なかなか勝てないQB」との印象もあった。このフレーズが、先発QBとしてNFL歴代最多の200勝を誇るマニングにふさわしいものではないことはもちろん承知の上だ。それでも、これが筆者がマニングに対して抱き続けてきたイメージだ。


 マニングの実力や功績を認めないということではない。1998年のNFL入りから、今年2月のスーパーボウル優勝まで見てきた記者の一人として、彼のNFL選手としての資質、パサーとしての能力、リーグに与えた影響はいずれも称賛する。間違いなく素晴らしいQBだ。


 一方で、意外なほどに大舞台で勝てなかった。いや、勝つまでに時間のかかった選手だった。
 マニングは新人ながら先発QBを任された。1年目は3勝しかできなかったが、翌年には早くもチームを13勝3敗の成績に導き、プレーオフに出場した。ドラフト全体1位指名のQBとして面目躍如だった。


 しかし、プレーオフではなかなか勝てなかった。3回連続の初戦敗退を経験し、初勝利を得たのは2003年シーズンのことだ。
 その頃、ライバルのトム・ブレイディ(ペイトリオッツ)はすでに01年にポストシーズン初出場でスーパーボウル優勝を経験していた。


 05年のコルツは14勝2敗の好成績でAFC第1シードとなり、スーパーボウルに最も近いチームと期待された。しかし、ディビジョナルプレーオフで最下位シードのスティーラーズを相手にまさかの敗退。ようやくスーパーボウルに達したのはその次の年で、NFL入りから9年が経過していた。


 その後もスーパーボウルには2009年、2013年と出場するがいずれも敗退。ブレイディはもちろん、弟のイーライや後進のベン・ロスリスバーガー(スティーラーズ)が複数のスーパーボウルリングを手にする中で、マニングは優勝から見放された感があった。筆者が彼を「勝てない」と評したのはこれが理由だ。


 しかし、あえて言いたい。マニングの勝利は逆境を克服することでもたらされたもので、その陰には常に逆境に立ち向かう姿勢があったと。


 ルーキーイヤーのマニングは試合に負けてもパスを投げ続けた。パス試投数(575)、成功数(326)、パス獲得距離(3739ヤード)、TD数(26)で新人記録を樹立する一方で、パス成功率はわずか56.7%、被インターセプトは28にも及んだ。
 マニングのパス成功率が60%に満たず、TDパスよりも被インターセプト数が多かったのは、不振だった昨季とこの年だけである。


 マニングは1年目の経験から多くのことを学んだ。シーズンオフに彼は自分のプレーをすべてビデオで見返し、徹底的に研究したという。それが翌年以降の成長の礎となった。
 03年と04年は、ともにプレーオフでペイトリオッツに敗れてスーパーボウルへの道を絶たれた。当時、コルツとペイトリッツはAFC優勝をかけて激しく戦っていたが、マニングにとって智将ビル・ベリチックとブレイディが率いるペイトリオッツは大きな壁となって立ちはだかった。


 それをついに打ち破ったのが06年シーズンだ。AFC決勝で6―21の劣勢から38―34の逆転勝利をもぎ取り、初めてスーパーボウルへ進出した。
 その後もコンスタントにレギュラーシーズンでは12勝以上を挙げる安定ぶりで、コルツの黄金時代は続いた。


 それが突然の終焉を迎えたのが11年だった。マニングは4度目の首の手術の影響でシーズンを全休。コルツは2勝14敗と低迷した。
 マニングの首の故障が重傷だと判断したコルツは彼を放出、フリーエージェントとなったマニングはブロンコスに新天地を求めたのだった。


 ブロンコスではマニングのパス能力に合わせたオフェンスを作ってもらい、彼自身もそれに応えて移籍2年目にしてリーグ1位のオフェンスを率いてスーパーボウルに出場した。シーホークスの強力ディフェンスの前に大敗したものの、完全復活をアピールした年だった。


 ところが、この頃にはすでに首の故障は再びマニングのパスを蝕むようになる。パサーにとって命ともいえる指先の感覚を失い、ボールに思うようなスパイラルがかからなくなった。
 パスは失速し、絶頂期には考えられなかったようなコントロールミスも続出した。


 それと時を同じくして、ジョン・フォックスHCの解任とゲーリー・キュービアクHCの就任、そしてパス主体からラン重視へオフェンスが方針を転換した。


 マニングは新しいオフェンススタイルへのアジャストに苦労した。得意のパスでオフェンスをドライブできなくなり、慣れないドロップバックはリズムを狂わせた。
 さらに足の故障による戦列離脱とバックアップへの降格。ブロンコスが着々と「ポストマニング」時代への準備を進めるなかで、「引退」の二文字は次第に現実味を帯びていった。


 しかし、そのまま終わるほどマニングは不運な男ではなかったようだ。プレーオフで先発の座を奪還するとスティーラーズ、ペイトリオッツを退けて自身4度目のスーパーボウルへ。
 そして、15勝1敗と絶好調だったパンサーズを抑えてのリーグ制覇。逆境を克服し続けてきたマニングの最高のフィナーレだった。


 記者会見を、マニングは次のように締めくくった。
 「僕のフットボールレースは終わった。18年の時を経て、今がその時だと思う」


 自身のキャリアを例えた「レース」の言葉が印象的だ。インディカーで有名なコルツの本拠地インディアナポリス、そして、競馬から連想される暴れ馬(ブロンコ)を意識した言葉なのだろう。なんとも粋な、最後の「オーディブルコール」だった。

【写真】記者会見で引退を表明するブロンコスのペイトン・マニング=デンバー(AP=共同)