ドラフトの記事を読んでいてふと目を引かれた一文があった。
 AP通信が配信したもので「Cleveland traded its seventh-round pick (No. 218) to Baltimore for the Ravens’ 2015 sixth-round pick.(クリーブランド・ブラウンズが7巡指名権をボルティモア・レイブンズに譲渡し、代わりにレイブンズの2015年の6巡指名権を受け取った)」というものだ。


 3日間のドラフト開催中に発生した計26件のトレードをまとめる記述の一節に過ぎない。しかし、筆者にはブラウンズとレイブンズの間でトレード交渉が行われたという事実は驚くに値したのである。


 ブラウンズとレイブンズは、ベンガルズ、スティーラーズとともにAFC北地区に所属するチームだ。このなかで、スティーラーズを除く3チームは実は同地区内ライバルという関係を超えた犬猿の仲にあり、トレードのようなチーム同士の交渉が過去にほとんどなかったのだ。
 どうしてこの3チームがこれほどまでに不仲であるのかには説明が必要だ。その始まりは半世紀以上前にまでさかのぼる。


 「クリーブランド・ブラウンズ」が誕生したのは1945年のことだ。NFLの対抗リーグとして翌年に設立されたオールアメリカフットボールカンファレンス(AAFC)の所属だった。
 初代のHCは伝説の名将と言われるポール・ブラウンである。もともと「ブラウンズ」の名称は「ブラウンの選手たち」という意味で、いかにこのHCの影響力が強かったかがわかる。ちなみに、現在32あるNFLチームで唯一ヘルメットにロゴが入っていないのがブラウンズだ。


 ブラウンズはその後、50年にAAFCの解体とともにNFLに参加する。まだNFLが13チームしかなかった時代だ。
 新参者のブラウンズはいきなりその年にNFL制覇を成し遂げる。以降、56年まで毎年チャンピオンシップゲームにまで駒を進め、さらに2度のリーグタイトルを手にした。ブラウンHCはNFL最強のHCとたたえられ、ブラウンズはその黄金期を迎えた。


 しかし、57年以降はプレーオフから遠ざかり、ついに62年シーズンを最後にブラウンは解任されることになる。彼の解雇を決めたのが1年前にオーナーに就任したばかりのアート・モデル氏だった。ここで一つの因縁が生まれる。
 ブラウンズを追われたブラウンは196年に同じオハイオ州のシンシナティに新プロチームを発足させ、NFLとは別組織のAFLに参加した。このチームが現在の「シンシナティ・ベンガルズ」である。


 ベンガルズの現オーナー、マイク・ブラウンはポール・ブラウンの息子だ。ベンガルズの本拠地が父の名をとり、「ポール・ブラウンスタジアム」と呼ばれるのはこうした理由がある。
 マイクはHCを解任されたころの父の落胆した姿を忘れられず、ブラウンズとモデル氏への恨みを募らせた。そのため、彼がオーナーとなってからはブラウンズとの間に試合以外の交流は持たず、トレードなど一切の交渉を禁じたのである。


 70年のAFL・NFL合併によってブラウンズとベンガルズは同じAFC中地区所属となり、そのライバル関係はオーナー同士の確執も手伝って、より激しくなっていく。
 時は流れ、95年にリーグに激震が走る。モデル氏が突如、ブラウンズの移転を発表したのだ。かねてからクリーブランドに新スタジアム建設を依頼していたモデル氏は、その交渉が決裂するや、メリーランド州ボルティモアへの移転を決断したのだ。


 ボルティモアはかつてコルツが存在していた都市だが、コルツが84年にインディアナポリスに移ってしまったためにNFLチームが不在のままだった。新スタジアム建設を条件にブラウンズ招致に成功したのである。ここに「ボルティモア・ブラウンズ」が誕生するはずだった。しかし、そうはならなかった。


 突然の移転宣言に激怒したクリーブランド市民はブラウンズ流出を防ぐべく訴訟を起こしたのである。市民は「ブラウンズというチームとその歴史、記録はすべてクリーブランド市とその市民の所有物である」と主張し、チームの移転は許さないと訴えたのだ。
 クリーブランドはエリー湖沿いに位置する人口40万人ほどの中都市だ。その都市圏内にカントンという小さな街が存在する。この街で1920年に当時存在していた四つのプロフットボールリーグが初の公式会議を開催し、高騰する年俸や統一ルールの必要性などを議論した。


 これがのちにNFLの前身となるアメリカンプロフットボールアソシエーション(APFA)設立の契機となった。カントンにプロフットボール殿堂が存在するのはこうした経緯が重視されているからだ。
 こういう背景から、市民にはクリーブランドこそNFL発祥の地というプライドがあり、その「聖地」からブラウンズを奪おうなどは言語道断との意識が強かった。
 そして、その希望通り裁判は市民の勝訴となり、ブラウンズの名称とその歴史はクリーブランドに残ることとなった。ただし、「聖地」がチームを失うという事態に変わりはなかった。


 モデル氏の所有するチームはボルティモアに移転するにあたってレイブンズという新たな名称を得た。これは、ボルティモアにゆかりの深いエドガー・アラン・ポーの詩「The Raven(邦題『大鴉』)」からとったものだ。レイブンズは96年に誕生した新チームであり、前年まで存在したブラウンズとは別の組織であるというのがNFLの解釈だ。
 クリーブランド市民の熱い思いはついにNFLまで動かし、99年に新興チームとして新たなブラウンズが当地に誕生する。市民は3年のブランクを経て再びプロチームを得たのだ。これが現在のブラウンズだ。このブラウンズは95年以前のブラウンズの歴史と記録をすべて受け継いでいる。


 ここで新ブラウンズとレイブンズの因縁が生まれる。そして、ベンガルズはモデル氏への反感からレイブンズ憎しの思いを強め、クリーブランドへの恨みから新ブラウンズとも確執を生じさせた。こうして三者の不仲が絡み合い、それぞれが交渉を敬遠する関係となったのである。


 クリーブランドのモデル氏への恨みは根強く残り、チーム移転後2012年に亡くなるまで、一度も公式にはクリーブランドの地を踏まなかったとされる。それだけ市民の反感が強く、身の危険を感じたからだ。
 モデル氏はリーグの発展に大きく貢献したオーナーの一人だ。現在のリーグの総収入の大半を占めるテレビ放送権料の整備にも尽力した。
 これだけの功績があるのにいまだ殿堂入りしていないのは、チーム移転が経歴に汚点として残っているからだと言われる。


 04年までオーナーを務めたレイブンズが12年シーズンのスーパーボウルを制した。殿堂入りはスーパーボウルの前日に発表されるが、開催地や出場チームにゆかりのある人物に票が集まる傾向がある。すでに故人ということで「みそぎ」が済んだとの見方があったが、この時もモデル氏の殿堂入りは見送られた。


 現在、レイブンズのオーナーはスティーブ・ビショッチ氏に代わり、ブラウンズも2年前にジム・ハズラム氏に買収された。オーナーの代替わりによって過去の確執が水に流されつつあるのだろうか。AP通信が伝えたわずかな一文に、そんな思いを馳せた。

【写真】コーチ陣と会話するブラウンズのオーナー、ジム・ハズラム氏(左)(AP=共同)