アドレル・アリーナのスピードスケートリンクに12日、北沢欣浩さん(51)の姿があった。ちょうど30年前のサラエボ五輪で男子500メートルの銀メダルを取ったスプリンターである。今回は裏方さんとしての五輪カムバックで、男子1000メートルのスターターを務めた。

 サラエボでの北沢さんの2位は、日本スケート界にとって待望のメダル第1号となる歴史的な快挙だった。ところが優勝候補として期待を一身に背負ってきた黒岩彰選手がまさかの10位に沈んだ。周囲はこの事態にどう対処すればいいのか、処しかねてしまった。

 レース当日は朝から湿った雪が降りしきり、開始が大幅に遅れた。屋外リンクで行われるのが普通のころで、雪は完全にやんではいなかったはずだ。1組スタートのセルゲイ・フォキチェフ選手(ソ連=当時)が38秒19をマーク。4組の黒岩選手は38秒70と全く不本意なタイム。直後の5組スタートの北沢選手は「リンクが軟らかかったので、滑るより走ったほうがいい」の思惑通り爆走して38秒30。最終的に「優勝フォキチェフ、2位北沢、10位黒岩」と多くの日本人にとって予想外の順位となった。

 大会前からいわば「黒岩五輪」と言っていいくらいに、黒岩選手は注目されてきた。彼は前年の世界スプリント選手権で総合優勝するなど国際舞台で大活躍。共同通信も同僚のスケート担当・O記者が「黒岩日記」を書きまくるほどの存在だった。

 その主役が敗れ、代表選考レースで好タイムを連発していたとはいうものの、伏兵的な存在の北沢選手が銀メダル。本来がスキー担当のわたしは、この日限りのスケート記者として北沢選手の「ヒーロー」を書き上げ、メダリストの記者会見場に駆け付けた。すると会場の雰囲気がしっくりこない。そのうち、笑みを浮かべながら応答していた北沢選手の表情が硬くなっていった。隣りに座る監督や役員の浮かない表情や言葉が伝染していったとしかこちらには映らなかった。

 お祝い記事の延長上で処理できる状況ではなかった。「大黒柱が倒れた危機を彼は救ってくれたんだ。救世主の出現にもっと大きな度量を見せてもいいじゃないか」。そんな思いに駆られて記事を作った。

 40数年来、スポーツ報道に携わってきた。いろいろな場面に遭遇してきたが、あれほど重苦しさが支配した勝利者会見には覚えがない。今でも折に触れてそのシーンがほろ苦く蘇ってくる。

 北沢さんは法大を卒業して故郷に戻り釧路市役所の職員となった。今は国際スケート連盟のスターターとして後輩たちを陰から支える立場にいる。「あの緊張感を味わえると思ったけど、全然緊張しなかった」と“2度目の五輪デビュー”を振り返った。この後は1500メートル、団体追い抜きを担当する。

(47NEWS 岡本彰)

岡本彰 1947年生まれ、北海道出身。共同通信の運動部で記者、デスク、部長などの立場から1972年札幌五輪以来多くの大会報道に携わった。記者としてはスキーなどを担当し、現在は47NEWS。