ぶつけ合い、削り合う―。華やかなテクニックに注目が集まりがちなサッカーの根底にはそんな荒々しい面がある。だからこそ、心温まる場面に出合った試合のことはなかなか忘れられない。

彼と初めて会ったのは、1986年9月。アジア大会を直後に控えた日本代表の調整試合だった。相手はブラジルのサンパウロ州選抜だ。とはいえ、直前のワールドカップ(W杯)メキシコ大会に出場したブラジル代表が名を連ねていた。当時の日本人からすれば超豪華なチームだった。

ブラジルに住んでいた知人のつてで、来日メンバーでブラジル代表のキャプテンを務めていたオスカーにインタビューできることになっていた。オスカーは翌年に日本リーグの日産自動車入りし、後にJリーグの京都でも監督を務めたあのオスカーだ。

ところが、約束の時間になってもオスカーが現れない。どうやら静岡の方に釣りに出掛けたらしい。ホテルのロビーで通訳とともに十数時間を待った揚げ句、取材は翌日に変更された。そんなわれわれを気にかけてくれた関係者がいた。88年から日立製作所でプレーし、95年シーズンには柏を指揮したゼ・セルジオとチームでメディコ(チームドクター)をしていたマルコ・アウレリオだった。

ゼ・セルジオは日本についての情報をほしがっていたのだろう。ホテルの喫茶店で長々と話した記憶がある。そして、マルコ・アウレリオから聞いたことは記事にした。ちなみに2002年途中から03年シーズンにかけて柏を率いたマルコ・アウレリオとは、まったくの別人である。別れ際、メディコのマルコ・アウレリオは1枚の写真をくれた。本来、サンパウロ州選抜で来日するはずだった世界的ストライカー・カレカの直筆サインが入った生写真だった。

そのカレカもJリーグが開幕した93年から柏でプレーすることに。だが、柏が所属していたのはJリーグの下位にあたるジャパンフットボールリーグ(現・日本フットボールリーグ=JFL=)だった。カレカは4シーズンにわたり、柏でプレー。94年には25試合で19点を挙げてJリーグ昇格の原動力となった。

カレカとともにマルコ・アウレリオもチームに加わった。当時の日本ではあまり見られなかった美しく整えられたアゴヒゲに丸い体形で優しい目をしたメディコの姿をスタジアムでしばしば見にした。柏を退団したカレカとともに、マルコ・アウレリオも日本を去った。しかし、サッカー界で生きていると、世界は思ったほど広くないと思うときがある。

日本が初めてW杯出場を果たした98年のフランス大会。パリで日本と同じグループHのアルゼンチン対ジャマイカの試合があった。試合前にジャマイカのベンチを見ていたら、なんとマルコ・アウレリオがいる。ブラジル人監督のレネ・シモエスが率いるジャマイカのスタッフだったのだ。

アルゼンチンとクロアチアに連敗したことで、日本が決勝トーナメント進出することはなくなった。それでもW杯に何らかの足跡を残す必要があった。その意味で初出場同士の対戦となったジャマイカとの第3戦は、双方の実力を考えても十分に勝てる試合だった。

しかし、机上での考えが必ずしも現実と一致するわけではない。日本はボールを支配したが、一瞬のスキを突かれカウンターからウイットモア前半39分、後半9分ウイットモア連続ゴールを許した。ここまでくると、勝敗は二の次。日本のW杯の初ゴールを誰が記録するか。無得点で大会を去ることは避けたかった。

後半29分、日本はその後のW杯につながる第一歩を踏み出す。記念すべき初ゴールを記録したのだ。決めたのは「ゴン」中山雅史。左サイドの相馬直樹が放ったクロスをファーポストにいた呂比須ワグナーがヘッドで落とした。それを中山が右足ダイレクトで「ゴンゴール」。そこから日本は攻め続けたが追加点は奪えなかった。

試合終了を告げるホイッスルがピッチに響いた。「終わった」という脱力感に包まれながら、ピッチを眺めていた。取材していた筆者にはそんな記憶がある。そんな時、ジャマイカベンチからピッチに走り込んでくる人がいることに気づいた。その人はゴール前で倒れ込む中山にいち早く駆け寄った。マルコ・アウレリオだった。

病院での検査の結果、中山は試合途中に右足腓骨(ひこつ)の亀裂骨折を起こしていたことが分かった。それでも中山は試合終了まで走り切った。大した男である。

日本ベンチは誰も、その異常に気付いていなかった。だが、敵ベンチのマルコ・アウレリオは試合中の中山の故障に気づいていた。だから、誰よりも早く中山に駆け寄って一番早く症状を確認した。

93年当時、磐田も柏と同じジャパンフットボールリーグを戦っていた。当然、マルコ・アウレリオも中山を知っていたはずだ。それでも、自チームのW杯初勝利を喜ぶより先に敵チームの選手を気遣えることはなかなかできることではない。小太りなヒゲのメディコの優しさは、3戦全敗に終わったフランスW杯の痛みをだいぶ和らげてくれた思い出がある。

岩崎龍一(いわさき・りゅういち)のプロフィル サッカージャーナリスト。1960年青森県八戸市生まれ。明治大学卒。サッカー専門誌記者を経てフリーに。新聞、雑誌等で原稿を執筆。ワールドカップの現地取材はロシア大会で7大会目。