サッカーの日本代表には「決勝トーナメント1回戦の壁」というものがある。2002年日韓、10年南アフリカ、18年ロシアと3度のワールドカップ(W杯)で、日本の挑戦を阻んできた難関だ。

この苦手意識はいつの日か、案外あっさりと取り除かれるのだろう。一度クリアしてしまえば、「壁」はなくなる。2017年にJ1初制覇した後は毎シーズン、タイトルをつかみ取っている川崎はその好例だ。要は飛躍するターニングポイントをどのタイミングでつかむかで、その後の経歴は大きく変わってくる。

1968年メキシコ五輪で獲得した銅メダルという栄光。それは、90年代序盤まで日本サッカーの呪縛になっていた。日本がアジアの中でも、決して強くなかった時代からサッカーをともに見てきた仲間たちと話すと、92年がこの国のサッカーにとってのターニングポイントになったことで意見が一致する。Jリーグが開幕する1年前のことだ。

今や6大会連続でW杯出場を果たすなど躍進を果たした日本代表の基盤となっているのは、Jリーグの成功だ。少年から育成組織設置を義務づけたことで、クラブ育ちの多くの選手が代表のユニホームを着るようになった。しかし、Jリーグを成功に導いたのは日本代表チームだった。

92年3月17日、東京・原宿にある岸記念体育会館で記者会見が行われた。日本代表初のプロ監督ハンス・オフトの就任会見だった。「一番の目標は日本をW杯に出すことだ」と発したオランダ人指導者を招いたのは川淵三郎。当時、日本サッカー協会の強化委員長でJリーグの初代チェアマンだ。川淵はそれまで「名誉」だけが活動の原動力となっていた日本代表に91年から勝利ボーナス制度を導入するなどして「勝つこと」を求めた。

オフト監督の初戦となった5月31日のアルゼンチン戦は0―1の敗戦。6月7日のウェールズ戦(0―1)を経て、7月にはオランダ合宿を敢行。8月14日、17日にはイタリアの強豪・ユベントスと2戦(2―2、1―1)を行った。十分に準備した新生日本代表が初めて臨む公式戦が中国・北京でのダイナスティ・カップ(現、東アジアE―1選手権)だった。

22日の初戦は韓国と引き分け(0―0)。24日は中国に2―0で勝利。そして、26日には北朝鮮を4―1で下した。2勝1分けの日本は、29日の決勝で再び韓国と対戦した。

初戦では引き分けたものの、それまでの7年間では6連敗。天敵とも言える韓国との一戦は2―2で決着がつかず、PK戦にもつれ込んだ。これを4―2で制し、日本は初優勝を飾った。日本サッカー界にとって、21年9月の大日本蹴球協会設立以来初となる公式戦のタイトルだ。今では信じられないだろうが、日本のフル代表はアジアを舞台にしても、それまで公式戦で一度も優勝を飾ったことがなかったのだ。

「アイ・コンタクト」「コンパクト」「スリーライン」「トライアングル・サポート」…。今では当たり前となったこんなキーワードを用いたオフトのサッカーは、攻守のラインを40メートル以内に保ち、FW、MF、DFが三つのラインを崩さずに戦うものだった。しかし、「管理主義」とも評されたサッカーは当初、ラモス瑠偉やカズ(三浦知良)ら自由奔放なブラジル流で結果を残していた読売クラブ(現、J2東京V)の選手たちの反発を招いた。

事実、92年9月に発行された雑誌でラモスは「オフトのサッカーは、いまの日本のサッカーには合わない」と公然と批判。ブラジル流を主張した。これに対しオフト監督は強い態度で臨んだ。ラモスに「代表を去ってもいい」と通告したのだ。しかし、インタビューはダイナスティ・カップ前で、その後考えが変わったことも合わせてラモスが謝罪。こうしてチームは崩壊を免れた。

10月から11月にかけての広島は、筆者の人生のなかでも特別な体験だった。地元でのアジア・カップで、サッカーにはまるで興味のなかった人々が日を追うごとに熱気が帯びてゆくのを肌で感じたからだ。

初戦は10月30日。アラブ首長国連邦(UAE)と0―0。続く、11月1日の北朝鮮戦も1―1の引き分け。グループリーグの最終戦となる3日の相手はイラン。引き分けでは敗退が決まる試合だった。しかし、終了3分前にカズが「足に魂込めました」の名言でも知られる劇的決勝点で1―0の勝利。広島の夜の街は、まだ「サポーター」の言葉が定着する前のサッカーファンで、連日あふれ返るようになった

さらに6日の準決勝。GK松永成立が退場処分になりながらも、中国に3―2のドラマチックな逆転勝利で初の決勝進出を果たした。そして、8日の決勝。高木琢也が美しい左足シュートを決めて、サウジアラビアを1―0で下した。日本が初めてアジア王者に輝いた瞬間だった。

オフト監督が就任してわずか半年。それまでの70年間、無冠だった日本が二つのタイトルを手にした。そして、94年W杯アメリカ大会アジア予選を迎えることになる。その意味で92年の日本代表は、新たなステージを駆け上がったチームだった。ご存じのように、93年に開幕したJリーグは大人気を博した。同年10月28日には「ドーハの悲劇」でサッカーが持つ残酷さをわれわれに見せてくれた。間違いなく特別なチームだったといえるだろう。

岩崎龍一(いわさき・りゅういち)のプロフィル サッカージャーナリスト。1960年青森県八戸市生まれ。明治大学卒。サッカー専門誌記者を経てフリーに。新聞、雑誌等で原稿を執筆。ワールドカップの現地取材はブラジル大会で7大会目。