2011年の長友佑都。12年には香川真司。そして、14年本田圭佑。この三つに共通するのは驚きだった。

前記した年、長友はイタリア1部リーグ、いわゆるセリエAのインテル、香川はイングランド・プレミアリーグのマンチェスター・ユナイテッド、本田はセリエAのACミランに移籍した。いすれも世界的な強豪だ。

Jリーグ創設以前というよりも、日本がワールドカップ(W杯)に初出場した1998年フランス大会以前の国内サッカーを知っているファンにとって、日本人選手がこのようなビッグクラブでプレーする時代がくるとは予想していなかっただろう。

21世紀に入り、多くの日本人選手が欧州各国リーグでプレーしている。南野拓実(リバプール)のように名門クラブでプレーすることも珍しくない。40年以上も前にこれに匹敵するような快挙を成し遂げた選手がいた。それが、日本人プロ第1号として西ドイツ(当時)1部リーグ・ブンデスリーガで活躍した奥寺康彦・現横浜FC会長だ。

現在ではブンデスリーガを始め、欧州リーグの多くで外国籍選手の枠が撤廃。それによって選手たちの移籍は日常茶飯事のように行われている。しかし、ボスマン判決が欧州司法裁判所で出される95年12月以前は、ヨーロッパ連合(EU)に加盟する国の国籍を持っている選手でさえ他国への自由な移籍、サッカー選手にとっての職業選択の自由は認められていなかった。

当時、試合に出場できる外国籍枠は3人。そこに現在のような「将来性を見込んで」というような要素は入り込まなかった。ボスマン判決以前の90年にACミランとインテルが激突する伝統の「ミラノダービー」を見に行った。

その時、ピッチに立っていた外国籍選手を挙げる。ACミランはフリット、ファンバステン、ライカールトのオランダトリオ。そしてインテルはマテウス、クリンスマン、ブレーメンとW杯イタリア大会を制したドイツ代表に名を連ねた3人。まさに「助っ人」と呼べるスーパースターだけだった。

古河電工の社員選手としてプレーしていた奥寺が、その後の人生を大きく変えたのは77年の夏。日本代表がドイツに遠征した時だった。前年から代表監督に就任した二宮寛が懇意にしている名将ヘネス・バイスバイラーの計らいで1FCケルンの練習に参加したのがきっかけとなった。帰国する3日前、二宮監督とともにクラブハウスに向かった奥寺は、バイスバイラーから直接「うちのチームでやらないか」と声をかけられたのだ。

90年代はセリエA。その後スペインのリーガ・エスパニョーラを経て、現在はプレミアリーグ。時代によって欧州各国リーグの勢力図は変わるが、70年代半ば、ブンデスリーガは世界一のリーグだった。

素晴らしかったのは、日本のサッカー界が奥寺のドイツ行きを全面的に後押ししたことだ。国内のことを考えれば日本リーグのスターを失うことになる。しかし、代表監督の二宮はもちろん、所属していた古河電工の鎌田光夫監督も「日本サッカーの将来のために」と挑戦をポジティブにとらえてくれた。

77―78シーズン途中に奥寺はケルンに加入した。当時のケルンは78年W杯アルゼンチン大会に臨む西ドイツ代表の中心となるハインツ・フローエやヘルベルト・ノイマンといったスター選手が所属していた。そのなかにあっても奥寺は気後れしなかった。

「うまいとは思うけど、すごいなというのは感じなかった。僕は僕で彼らの持っていないものを持っている。それを出せばいいと思っていた」

1シーズン目の得点は4ゴールだったが、どれもが貴重なゴールになった。なぜならボルシア・メンヘングラッドバッハとの優勝争いは得失点差で決まったからだ。さらにケルンはドイツカップにも優勝。奥寺はルーキーシーズンに2冠というこれ以上ない成績を収めた。

アジア人で初めてブンデスリーガで優勝を成し遂げた翌シーズン、またも新しい勲章が加わった。アジア人初の欧州チャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ=CL=)での得点だ。現在は国によって1カ国から複数のチームが参加できる大会となったが、92年までは欧州各国のリーグ王者だけが出場権を得られる大会だった。その意味で現在よりも狭き門だった。その78―79シーズン準決勝、第1戦のノッティンガム・フォレストとのアウェー戦で奥寺は、3―3となる同点ゴールを記録。これがCLにおけるアジア人初の得点となった。

80年にバイスバイラー監督がチームから去ると、ヘタゴット監督の構想から外れて苦しい時期もあった。その後、ヘルタ・ベルリンを経て移籍したベルダー・ブレーメンではオットー・レーハーゲル監督の厚い信頼を得てレギュラーの座を勝ち取った。左サイドバックとして「東洋のコンピューター」の異名をとる正確無比なプレーで、ブレーメンを優勝争いの常連に押し上げた。

86年に古河電工に復帰するまでブンデスリーガで10シーズンを過ごした。リーガ出場は1部234試合、2部25試合。1部での出場数は長谷部誠に抜かれるまで最多だった。なにより価値があるのは、その試合出場が外国籍枠3人の競争を勝ち抜いて手に入れたことだ。当時のブンデスリーガは、世界最高峰のリーグだったことを忘れてはいけない。

現在でもドイツでは「OKU」の愛称で呼ばれるレジェンド。2017年にはその功績が認められて「ブンデスリーガ・レジェンド」に選出された。奥寺会長は本当にすごい世界のトッププレーヤーだったのだ。