求道者であり、哲学者。さらに国際派にしてエンターテイナー。見事な散り際だった。

3月21日、東京ドーム。米大リーグの開幕カードでもあるアスレチックス戦の試合終了後、稀代の「安打製造機」シアトル・マリナーズのイチロー選手が現役引退を発表した。

感動の場内一周から翌22日までずれ込んだ深夜の記者会見の模様は、その後のテレビや新聞で詳しく報じられているので、ここでは割愛する。

だが、会見の中で最も心に残った一部だけは、こだわってみたい。

「僕って、向こうでは外国人なんですよね」という言葉である。当たり前なのだが、ハッとさせられた。

日本だけでなく、世界でも認められたスーパースターは敵地に乗り込んで戦っていた。

ある時は偏見や差別への挑戦を続けた。栄光だけでない。挫折も味わっている。それだからこその、濃密な90分に及ぶ会見は聞く者の心を震えさせたのだ。

日本のプロ野球で7年連続首位打者の勲章を携えて、海を渡ったのは2001年のこと。

それでも当初は「どの程度、やれるの?」と懐疑的な目が大半だったという。ともかく結果を残して、認めさせるしかなかった。

1年目から大ブレークし、全米の野球ファンの目は称賛に変わった。

その後も安打を量産して日米通算安打数は4367を数え、手にしたタイトルは数えきれない。

だが、栄光の日々から一転、晩年は苦渋を味わう。

2012年にヤンキースへ移籍してからはレギュラーの座を奪われたばかりか、「代打の代打」を送られる屈辱まで経験している。

それでも、日本人選手ばかりか、メジャーリーガーにまで尊敬の念を抱かれているのは、イチロー選手の野球に取り組む真摯な姿が認められたからだろう。

キャンプでもシーズン中でも、球場には常に一番乗り。自費で購入した何百万もするウエートトレーニングの器具と格闘する。

キャッチボール一つとっても、一切の手抜きはない。その姿勢は45歳になる今季まで続けられた。

「クビになるのでは? 毎日がそんな感じでしたね」と、イチロー選手は晩年のヤンキース、マーリンズでの日々を振り返る。

どんな大選手でも衰え、活躍の場を失えば、ある日突然居場所がなくなるのがメジャーの掟。ましてや「外国人」であるイチロー選手は、どんな環境でも戦い続けるしかなかったのだ。

イチロー選手に、数多くの言葉が寄せられた。ここでも一人だけにフォーカスしたい。同じメジャーに籍を置いたこともある阪神・藤川球児投手のコメントが心に残る。

「(引退会見は)自宅で正座して見ていました。憧れだからこそ届かない存在で。雲の上とはこのことだなと。日本人の代表として世界に日本を知らしめてくれた。自分も惹きつけられた一人で、受け取り方によって印象の変わる言葉、それを探るのが好きでした」。まさに、不世出の男を言い表している。

最後の会見では饒舌に「イチローワールド」を展開したが、日頃は違った。

不勉強な質問は無視し、ある時には近寄りがたい空気すらあったという。これも真剣に野球に向かう気持ちの裏返しだった。

一方で、細やかな心遣いができる人でもある。

某スポーツ紙のイチロー選手番記者が退職して、教師の道を志す。野球に取り組む姿勢を若者に直接伝えたい、というのが理由だった。

数年後、高校教師としてメジャーリーグを訪れると、イチロー選手は観客席まで足を運び激励している。

己と戦い、野球と戦ってきた「鉄人」は今のメジャーに対して苦言も呈している。

「最近の選手は頭を使わないよね」の言葉には、近年のデータ重視、偏重への疑問符がある。

極端な守備位置もデータからはじき出されたもの、「フライボール革命」は打球の角度までデータで洗い出して導いたものだ。

自分で考え、工夫していくのがプロだとしたら、過度のデータ依存は野球をつまらないものにする危険性もはらんでいる。職人からしたら面白くないのだろう。

一つの時代は終わった。しかし、鈴木一朗の残した足跡を追いかける選手はさらに増えていくだろう。

西武の秋山翔吾選手はイチロー選手の最後の勇姿を見たくて東京ドームに足を運んだ。

秋山選手は、このオフにもポスティングシステムでメジャー挑戦を視野に入れている。日本の安打製造機は、ますます刺激を受けたに違いない。

荒川 和夫(あらかわ・かずお)プロフィル

スポーツニッポン新聞社入社以来、巨人、西武、ロッテ、横浜大洋(現DeNA)などの担当を歴任。編集局長、執行役員などを経て、現在はスポーツジャーナリストとして活躍中。