まだどこか信じたくない気持ちがある。闘将、星野仙一氏がこの世から去ったことを。

4月21日、東京六大学野球リーグの東大―明大の試合前に、追悼セレモニーが行われた。

明大時代の写真やプロ野球で活躍した映像が大型ビジョンで流され、黙とうが捧げられた。

同リーグでそのようなセレモニーが実施されるのは初めてのこと。セレモニーが終わって球場が温かい拍手に包まれた光景を思うと、野球界への影響力、存在感の大きさをあらためて感じた。

人の縁は不思議だ。筆者は2012年から14年までプロ野球楽天で、星野氏の監督生活最後の3年間を担当した。

そして現在担当しているアマチュア野球の現場で追悼の場面に立ち会うことになるとは…。

ここからは星野氏のことをあえて「監督」と呼ばせていただきたい。楽天担当となって仙台に赴任し、初めて監督に挨拶した時、大きな体から放つオーラに圧倒された。あんなにオーラのある人は今まで出会ったことがなかった。

幼少期にテレビで見ていたような乱闘シーンでの鬼の形相や、ベンチの扇風機をたたき壊す姿から怖い人をイメージしていた。しかし、それは勝利に対する執念から来ているだけで、普段はどこまでも人間が好きで選手やスタッフ、球団職員はもちろん、担当記者にも気配りしてくれる優しい人だと見方が変わった。

東日本大震災発生直後、テレビカメラを仙台と遠征先でつなぎ、選手らが家族と話せる環境づくりをした。球団にバスの手配を依頼し、選手らの家族を移動させて面会できるようにも尽力した。

監督通算勝利で歴代10位の1066勝に到達した記念として、首から下げるパスケースをつくって球団職員全員にプレゼントし、日頃の感謝の気持ちを表した。

担当記者陣には食事会や遠征先の朝に行われる通称「お茶会」を開いて取材する機会を何度も設けてくれた。

担当中、監督と1対1で話ができた機会は5回もないかもしれない。それでも筆者のことを認識してくれていたと思う。

楽天担当を離れた後、取材現場でお会いした時には「何しとるんやこんなところで。子どもはまだか?」などと声をかけていただいた。

昨年11月28日、監督が楽天の日本一達成時の担当記者も招待してくださった野球殿堂入りを祝う会の終了後に、話をする機会があった。

監督「今日はありがとうなあ。お前、今どこにおるん?」

筆者「今は東京でアマチュア野球などを担当しています。監督、報告があります。今月(昨年11月)、第1子が生まれました」

監督「何?! そうかあ、良かったなあ」

会場のホテルから帰りの車に乗り込むまでの短い時間だったため、多くは話せなかったが、子どもが生まれたことを告げた時の驚きようと祝福の笑顔はこの先も忘れることはないだろう。そしてこれが監督との最後の会話になったことも。

この約1か月後に他界するなんて思ってもみなかった。

プロ野球90周年や100周年の時には、常に野球界全体のことを考えていた監督にインタビューしてみたいと思っていた。

雑談では以前のように野球だけでなく、政治や経済、人生訓などに加え、筆者のレベルに合わせた低俗な話題まで、さまざまな話を聞きたかった。もうそんな機会がないと思うと、どうしようもなく寂しい。監督と、もっといろいろな話がしたかった。

佐藤 暢一(さとう・まさかず)プロフィル

2009年共同通信入社。12~14年にプロ野球楽天を担当し、球団初の日本一を取材。14年12月に本社運動部に異動し、アマチュア野球などを担当。上智大時代はフライングディスク競技、アルティメットをプレー。横浜市出身。