ユースチームからの生え抜きといえども、プロのサッカー選手は、立場としては個人事業主だ。だから、職業選択の自由という憲法に定められた条項がある限り、条件が合えば自分を必要としてくれるどのクラブと契約を交わしても構わない。

ただ、感情論としては違う。特にその選手が小学生の時から同じ色のユニホームを着続けてきた場合だ。練習場で成長を見守ってきた熱心なサポーターは、彼に対してこのような期待を抱くはずだ。

「将来はわがクラブのバンディエラに育ってほしい」と。

イタリア語で旗頭を意味する「バンディエラ」。サッカーでは一貫して特定のチームに根を下ろして、活躍し続ける象徴的プレーヤーを指す。特別な選手にだけ与えられる名誉ある称号だ。Jリーグを見ればともにユース出身ではないものの、川崎であれば中村憲剛、鹿島なら小笠原満男がこれに当たるだろう。

2018年シーズンを前にした1月12日、将来のバンディエラ候補だった一人の選手が移籍することが突然発表された。横浜Mの斎藤学が、ホームタウンを接するライバルチームの川崎に加入したのだ。そのニュースは、あまりにも突然で予想外だっただけに大きな驚きを持って受け止められた。

11年にJ2愛媛に貸し出されたものの、プロ契約した08年から「横浜Mの」という色が鮮明だった。それは小学生から一貫して横浜Mの下部組織で育ったからだろう。日本代表にも選出され、12年のロンドン五輪と14年のワールドカップ(W杯)ブラジル大会でメンバー入りした。その名前の横に記される所属チーム名は、常に横浜Mだった。

チームの顔としてより前面に立つようになったのは昨年だった。それまで横浜Mの絶対的なバンディエラだった中村俊輔が、熟考の末に磐田に移籍。リーグを揺るがす大ニュースとなったが、その偉大な「10番」の背番号とともにキャプテンマークを引き継いだのが、斎藤だった。当時、本人は「シュンさんに10番とキャプテンを引き継ぐ許しを得た」と語っていたが、決断に至る覚悟は並大抵のものではなかったと伝わってきた。

その17年、斎藤は苦しんだ。攻撃のエースと目されながらも、得点が奪えない。リーグ戦での初ゴールは9月16日、第26節の柏戦まで待たなければいけなかった。しかも、その翌節の甲府戦で、右ヒザ前十字靱帯(じんたい)を損傷。診断は全治8カ月の重傷だった。

だからこそ、リハビリ中にまさか移籍が発表されるとは想像できなかった。その移籍先が自分の生まれ育った街・川崎にあるとしてもだ。斎藤は移籍について「恩をあだで返すような」と自ら表現しなければならなかった。しかし、だからこそ前段階には、外部からは想像のできない葛藤があったと察せられる。

06年、W杯が開催されていたドイツ。この時期に浦和が当地でキャンプをしたことがある。バイエルン・ミュンヘンのユースとの練習試合があるというので、仲間と見に行った。その時に一番記憶に残っているのは、ゲルト・ミュラーがバイエルンのユースチームの監督をしていたことだ。一時アルコール依存症のうわさがあった伝説の選手が元気そうにしていたのだ。

06年ドイツ大会でブラジルのロナウド(15点)に更新されるまで、W杯最多得点の記録を32年間保持していた元祖“ボンバー"(爆撃機)。メキシコと西ドイツ=当時=の2大会で14点を挙げた希代のストライカーが、長い年月を経てもバイエルンにいるのがとてもうれしかった。そして、この世界的なビッグクラブは自クラブのレジェンドを本当に大切にする。現在も会長はウリ・ヘーネスだし、代表取締役はカール=ハインツ・ルンメニゲ。オールドファンが涙を流して喜びそうな往年の名選手が、現役を退いても当たり前のようにクラブに関わっているのだ。

それを考えれば、ここのところの横浜Mはちょっと残念なクラブに変わってしまった。14年7月からイングランド・プレミアリーグの強豪マンチェスター・シティを運営するシティ・フットボール・グループ(CFG)と提携。CFGの全額出資によって設立された日本法人がマネジメントをするようになったが、伝わってくるのは悪い意味でのドライさだ。そこに人間味のある温かさは、あまり感じられない。

人一倍のクラブ愛を持った中村俊輔、斎藤学を筆頭に、多くの選手が苦渋の思いで別れを告げなければいけなかったトリコロールのユニホーム。彼らを簡単にサポーターは「裏切り者」といえるのだろうか。選手が変わってもクラブが支持されればいいという考え方を持つ経営者もいるだろう。ただ、クラブを身近に感じるための入り口となるのは、間違いなく選手だということを忘れてはならない。

岩崎龍一(いわさき・りゅういち)のプロフィル サッカージャーナリスト。1960年青森県八戸市生まれ。明治大学卒。サッカー専門誌記者を経てフリーに。新聞、雑誌等で原稿を執筆。ワールドカップの現地取材はブラジル大会で6大会連続。