日本ハムの大谷翔平が、ポスティングで大リーグのエンジェルス移籍が決まった。

大リーグのほとんどの球団が23歳の大谷獲得に興味を示したことで、米国で「二刀流」(野球の場合はtwo-way player)が注目される言葉になった。

「挑戦」を好む米国らしい受け止め方だと思うが、数年で投手か打者かを決めることになると思っている。

大谷の他にもオリックスの平野佳寿、西武の牧田和久両投手もメジャーを目指している。

彼らに「マウンドは安住の地か」と聞いたら多分「冗談を言わないでくれ。必死なんだ」と怒るだろう。

しかし、今回取り上げる元近鉄の故武智(旧姓田中)文雄はマウンドに安住の地を見つけた男だった。

▽「鎮魂の碑」

近鉄の武智投手の名前は知っていたが、完全試合をやった以外は詳しく知らなかった。「生きて還る 完全試合投手となった特攻帰還兵 武智文雄」(小林信也著、集英社インターナショナル刊)を読み、あらためてプロ野球選手と戦争を考えさせられた。

巨人が本拠地を置く東京ドームの敷地内に「鎮魂の碑」があるのを知っているファンはそう多くないと思う。

1981年に当時の鈴木竜二セ・リーグ会長らが中心となって、日中戦争や太平洋戦争で亡くなったプロ野球選手、約70人の功績を記念して建立された。

プロ野球草創期に活躍した選手たちが戦争の犠牲となったが、プロ野球の隆盛は彼らなくしてはないという鈴木会長の悲願でもあった。

2年前には、戦後70年の節目に楽天の嶋基宏ら3選手が献花したが、ひっそりと行われた印象しか残っていない。

「鎮魂の碑」こそ、若い選手たちがプロ野球の成り立ちと自分の立ち位置を学べるいい機会だと思うが、選手教育にあまり活用されているようには見えない。残念である。

▽沢村の生誕100年

今年は、今も「沢村賞」として名が残る元巨人の沢村栄治の生誕100年だった。伝説の速球投手であり、34年(昭和9年)に日本で行われた日米野球で米国選抜を8回5安打1失点。負けたが、ベーブ・ルースらから三振を奪って驚かせ「米国に連れて帰りたい」と言わしめた快投だった。

▽初の永久欠番

沢村は3度目の召集で44年12月2日に戦死した。

手榴弾の投げ過ぎで肩を壊し、3度目のノーヒットノーランはサイドスローで達成した。1リーグ時代で通算63勝22敗という記録が残っている。160キロ近い速球を投げたとされ、戦争がなければもっと勝てていた。

戦没した景浦将、西村幸生(ともに阪神)や沢村とバッテリーを組んだ吉原正喜らとともに野球殿堂入りした6選手の一人で、その背番号「14」は球界史上初の永久欠番となった。

今年3月に出身地の三重県伊勢市で「生誕100年記念」として巨人―日本ハムのオープン戦で、巨人は全員が「14」番で試合をした。

▽九死に一生

沢村らとは逆に戦争から生きて還ってきたのが武智なのだが、この人生も波乱に満ちたものだった。

旧岐阜市立岐阜商を中退して16歳で予科練に志願した。戦争で甲子園での中等野球大会が中止になったためだ。

「桜花」という爆弾を抱えたエンジンのない飛行機で出撃する、絶対生きて戻れない特攻隊員となる。

4度の出撃命令はいずれも直前で変更となり終戦を迎えた。九死に一生を得たが「自分だけが生きて還った」という意識からすさんだ生活でけんかに明け暮れた。立ち直らせたのは野球だった。

▽近鉄の契約第1号

岐阜の地元企業の大日本土木で投げ、近鉄球団のプロ契約第1号選手となる。

新興の近鉄は球界のスーパースターだった関根潤三氏などがいたが弱かった。武智にとって一心に打ち込めるマウンドこそ「安住の場所」だった。

13年間で100勝137敗。この100勝の中にパ初、史上2人目の完全試合が含まれている。

55年6月に今はない大阪球場での大映(現ロッテ)戦で完全試合を達成した。アンダースロー投手で6三振を奪った。

今回知ったのだが、武智は同じ年の8月の大映戦でも九回1死まで一人の走者も許さない快投。もちろん、1人の投手が2度の完全試合をやった例はない。

▽初の快挙は写真なし

武智の5年前の50年6月に、巨人の藤本英雄が日本初の完全試合をやってのけた。ただ、青森で行われたこの試合に記者は3、4人でカメラマンはおらず、その勇姿は残っていない。

もっとも、その当時は記録にこだわることはほとんどなく、完全試合という言葉すらなかったほどだ。

ノーヒットノーラン試合は1リーグ時代に16人で21度。セは37人で40度、パは27人で28度。完全試合はセ8度、パ7度で、94年の巨人・槙原寛己以来、達成されていない。

プロ野球では投手の分業化が進み、完投するのも珍しくなっていて、今や完全試合は“絶滅危惧種"となりつつある。

▽「パーフェクト」

武智は4年前に86歳で亡くなったが、近鉄でコーチなどをやり、その後は京都でネクタイ業を営んだ。そのブランド名は「パーフェクト」だった。

近鉄球団は2004年の球界再編で消滅した。「生きて還る」は、2リーグに分裂した直後のプロ野球裏面史にも書かれている。(文中敬称略)

田坂貢二(たさか・こうじ)のプロフィル

1945年広島県生まれ。共同通信では東京、大阪を中心に長年プロ野球を取材。編集委員、広島支局長を務める。現在は大学野球を取材。ノンフィクション「球界地図を変えた男 根本陸夫」(共著)等を執筆