「何だ、それくらいのケガ。最後まで根性でプレーしろ」

いまどき、そんなことを言う指導者がいたら、大変な問題になるだろう。ところが、ケガをしてもタイムアップまで根性でサッカーを続けなければいけなかった時代があった。そして、それはそう大昔の話ではない。

ワールドカップ(W杯)で選手交代が認められたのは1970年のメキシコ大会からだが、交代できるのは2人までだった。だから、準決勝でイタリアと対した西ドイツ(当時)のベッケンバウアーは肩を脱臼したもののチームがすでに交代枠を使い切っていたため、腕を包帯で体に固定しながら延長戦も含めた120分間を戦い抜かなくてはならなかった。現在のように3人が交代可能になったのは、日本が初めて出場した98年フランス大会。わりと最近のことなのだ。

当初、負傷者救済のために設けられた選手交代のルール。しかし、それを戦術として利用する監督が出てくるのは時間の問題だった。そして、現在においては、試合の流れを効果的に変えるための選手交代ができるか否かが、監督の能力を評価する上で大きな要素となっている。

日本時間の11月15日早朝にベルギー北西部のブルージュで行われたベルギー戦。日本が0―1で惜敗を喫した試合の勝敗を分けたのは、結果的に選手交代にあったのではないか。

試合後、長友佑都が「前半からチームが一つになって集中した守備ができていた」と語っていた。その言葉通り、ベルギー戦はブラジル戦と比べると、相手の攻撃に対してどうしても対応ができないという場面が確かに少なかった。先発した11人が守備に対する共通意識を持ち、個人ではボールを奪うことができなくても、二の矢、三の矢を放ち、相手のスピードとパワーを奪っていった。もちろん、ピンチはある。だが、それはサッカーというゲームの中では想定内のことだった。

目新しかったのは、右インサイドハーフで先発出場した長沢和輝だ。代表デビュー戦とは思えないほどの落ち着いた平常心のプレーを披露してくれた。特に、同サイドのウイング・浅野拓磨、サイドバック・酒井宏樹と連係した激しくしつこい守備は手応えを感じられるものだった。ところが、そのバランスは後半の選手交代によって崩れてしまった。

後半17分に長沢に代わり森岡亮太、同23分には浅野に代わり久保裕也が投入された。守備力が持ち味の長沢はもちろんのこと、この日の浅野は攻撃面での技術不足を露呈したものの守備への意識は高かった。それに比べ、ともにベルギーでプレーする森岡と久保は残念ながら、他選手と守備意識の共有が十分ではなかった。普段、所属チームで守備の役割をあまり求められていないというのも関係しているのだろうが。

それにしても、もったいない失点だった。後半27分に左サイドをドリブル突破したシャドリのクロスからR・ルカクに決められたヘディングでの決勝点。久保と森岡のプレーがあまりにも軽過ぎた。ペナルティーエリア左の10メートル前で日本ゴールに背中を向けた静止状態のシャドリ。そこから反転されペナルティーエリア内に突破を許す。吉田麻也はこの場面を「ボックス内に入られた後はノーチャンスだった」と振り返っていたが、責任はその前段階にある。何の抵抗も示さなかった久保と森岡は、これがW杯本番だったらひどくバッシングされただろう。この2人はあの瞬間に限っては、練習用のパイロンのようなものだった。

ボールを奪うことを積極的に教えられないから、ボールを奪いにいかない。日本の育成年代でよく目にするシーンがある。ボールを奪おうと足を出す子供を指導者が怒るのだ。黙ってついて行って相手がミスするのを待てということなのだろう。だが、「受け身」の守備である以上、相手がミスをしなければボールは取れない。自分で取りにいく経験が少ないから、どのタイミングでアタックにいくかもわからない。だから、日本のサッカーは大人になっても守っているのではなく、守っている「ふり」の場面がとても多い。

あの場面で久保や森岡がボールを奪えないまでも体をぶつけていれば、シャドリのスピードは落ちたはずだ。そうすれば吉田が一発の切り返しで背後を取られる可能性も、いくらかは低くなっただろう。さらに欲をいえばペナルティーエリアに入られる直前にファウルをしてでも止める必要はあったのではないだろうか。W杯本番を戦う上では、それくらいの割り切りはおそらく必要だろう。

それにしても、ふに落ちないのがベルギーの国際サッカー連盟(FIFA)ランキングだ。5位なのだが、なぜこんなに高いのだろう。今回も「これが5位ですか」と思わせるチームだった。確かに個々の選手を見ればすごいタレントの名前が並ぶ。ただ、このチームが試合内容で相手を圧倒する場面をあまり見ない。基本的にリアクションのカウンター・チーム。そういうことなのだろう。

岩崎龍一(いわさき・りゅういち)のプロフィル サッカージャーナリスト。1960年青森県八戸市生まれ。明治大学卒。サッカー専門誌記者を経てフリーに。新聞、雑誌等で原稿を執筆。ワールドカップの現地取材はブラジル大会で6大会連続。