祭のような華やいだ一日だった。2月26日、今季のJ2が開幕した。その上のカテゴリーで、日本サッカー界の最高位にあるJ1は前日に25年目のシーズンが始まった。なのに、この日ばかりはJ1をしのぐ注目が、横浜市のニッパツ三ツ沢球技場に集まった。

押し寄せた報道陣は海外メディアも含めて実に200人を超え、スタンドも1万3000人超で埋まった。何とも言えない高揚感に包まれている。カズさんの50歳の誕生日である。三浦知良選手と記すよりも、普段通りの敬愛を込めた呼び名の方がしっくりくる。

現役のサッカー選手としては常識外れの年齢で、なかには否定的な向きもあるだろう。本人も痛感しているように、パワーやスタミナの衰えは隠せない。当然だ。50歳なのだから。

プロ32年目のシーズン初戦に先発出場したが、後半15分に退くまで目立った活躍はできなかった。それでも、右クロスの精度さえ高ければ「もしかして」という場面があった。誰よりも仲間を鼓舞し、神経を研ぎ澄まし、DFとの駆け引きを繰り返し、ボールを追う。その試合に出るために、想像を超える鍛錬と準備を日々、決して欠かさない。

どうして、そこまでできるのかと単純に思う。「それはサッカーが好きだからということに尽きる。これしか僕はやってこなかったですから。だからサッカーに感謝しているし、体と情熱が続く限りはやりたいなと思いますね」。辞めたくなったことはないのかと不思議に思う。「ないですね。全くない」

1993年5月15日の歴史的なJリーグ開幕戦に出場し、リーグ初代MVPにも輝いた選手が、今もピッチを駆けている。当時チェアマンだった川淵三郎氏も観戦に駆け付け「感慨ひとしおどころじゃないよ。とにかく、すごいことだよな」と感服した。当時から、まぎれもなくスターだった。

ワールドカップ(W杯)には出たことがない。カズさんが40歳の時、思い切って聞いたことがある。「自分こそW杯に出るべき選手だったと思うことはないのですか」。1993年はドーハの悲劇でW杯初出場を目前で逃した。ただ、それ以前は多くの人にとって遠い夢でしかなかったW杯に、日本が手の届くところまで来ていると知らしめてくれたのが、この人だ。

プロとしてのキャリアをスタートさせたブラジルから戻って日本のサッカーブームの火付け役となり、長らく日本代表の顔として活躍した。それなのに初出場を果たした98年大会は直前でメンバーから外れた。

「僕もW杯に出る権利を持っていた一人ではあったと思う。でも、実力の世界だからね。絶対的な力があれば、行っていたわけだから。94年にもし出ていたら、誰が僕を外しましたか。監督が10人いたら10人が僕を連れて行ったと思う。でも98年の時は10人のうち5人は連れて行って5人は外したかもしれない。分からないですよ。でも、それだけの力だったということ」

デリケートな質問に、真っすぐ目を見てそう答えてくれた。体が震えるような感覚を味わった。

松本に1―0で競り勝って節目の誕生日をチームの白星で飾ると、待ち構える報道陣の前に派手なピンクのスーツで登場した。ボロボロになって現役にしがみつくといった悲壮感とは一切無縁で、常に楽しげな雰囲気が漂うのもスターたる所以か。

取材中に、こんな質問が出た。「どうしたら、そんなに素敵な50歳になれますか」。ちょっと考えて「そんなこと言えないですよ。ここまで出かかったけどね」と、のどに手をやって笑った。

聞きたかった答えは分からないが、想像するに、懸命に一つのことに打ち込み続ける尊さを体現していることではないか。

「サッカーに対して失礼がないように、自分は全力を尽くしたい」。そんな姿勢を貫いて、ここまで走り続けて来た。次は50歳での初ゴールを心待ちにしようと思う。華やぐ祭には、まだ続きがある。

山室 義高(やまむろ・よしたか)1975年生まれ。神奈川県横浜市出身。共同通信の名古屋、大阪両支社を経て2005年12月から東京運動部。主にサッカー担当でワールドカップ(W杯)は2002年から3大会連続で取材。