野球場はいつも満員だった。一投一打に大歓声が挙がり、夏の甲子園大会やワールドシリーズのような熱気だった。ただ、そこは強制収容所の中だった。

日米開戦後の1942年2月19日、ルーズベルト米大統領は日系人を強制的に移住させることを許可する大統領令第9066号に署名。12万人を超える人々が全米11カ所の強制収容所に送られた。所持が許された荷物はトランク2個分だけ。仕事も家も財産もなくなり、シアトルやロサンゼルスなどの日本人町はゴーストタウンと化した。

それから75年になる。和歌山育ちの入山正夫さん(95)は、カリフォルニア州サンタマリア高校に進んで将来有望な遊撃手だったが、内陸のへき地に移住させられた。「生まれて初めて汽車に乗ったが、行き先は教えてもらえないし、窓は厚いカーテンで閉め切って乗客の顔も分からない。収容所は刑務所と同じで看守が銃を構えていた」と回想する。

同年のミッドウェー海戦に大敗してから日本軍は劣勢になり、看守の抑圧が少し和らいだ。いくつかの収容所では娯楽として野球活動が認められ、日系人たちは自らの手で野球場を建設した。野球規則にのっとってマウンドに土を盛り、外野に芝生を養生した球場もあった。戦前にセミプロだった選手も在籍しており、レベルは高かった。

カリフォルニアとオレゴンの州境にあったトゥーリーレーク収容所では、地名を取った「鶴嶺湖(つるれいこ)リーグ」が形成された。入山さんは「野球をするときは外に出られたような気持ちになった。収容所には何の楽しみもないから、子どもから老人までみんな見に来た」と、昨日のことのように話す。22歳だった1944年シーズンは前半戦に本塁でのクロスプレーで頭部を強打、脳振とうを起こして運動を控えていた。だが初夏に復帰すると「どういうわけか、打席で球がよく見えるようになった」とバットで快音を響かせ続け、4割2分台の高打率で首位打者に輝いた。

試合の公式記録やトロフィー、使用球を今も大切に保管している。日本シリーズに相当する「鶴嶺湖シリーズ」を制して優勝を決めた大一番や、全日程終了後に行われたオールスター戦に「4番・遊撃」で出場した記録が残っている。

トゥーリーレークには米国政府のいかなる命令にも従うかを問う「忠誠テスト」の中の重要な2問に「NO」と回答した者が送られ、「収容所の中の収容所」と恐れられた。入山さんは日本に親きょうだいが残っていたため、米軍兵になって出征することを拒否。荒野に寒風が吹き荒れ、春でも雪が降る過酷な環境に、第2次大戦終結後の46年3月まで閉じ込められていた。

戦後も米国で生きた入山さんは、ニューヨーク州の野球殿堂で開催された日系野球展や、大リーグの始球式などにも呼ばれている。元遊撃手として「相手打者の打球音を聞けば、フライの落下点やゴロの処理位置がだいたい分かった。日本人のショートも大リーグで活躍してほしいですね」と、ひ孫の世代に期待している。

伊藤 光一(いとう・こういち)1972年生まれ。鎌倉市出身。共同通信入社後、社会部、大阪社会部で事件・事故取材などを担当。2009年から運動部でラグビー、プロ野球などを取材し、13年からロサンゼルス支局で大リーグを中心に取材。