PK戦にもつれ込んだ試合は公式記録では「引き分け」として記される。そうはいうものの、この「11メートルの神経戦」を制すか、そうでないかによって大きな差異がある。特にそれがタイトルの懸かったカップファイナルである場合、PK戦を制したチームと敗れた者ではその後のサッカー人生の履歴書は大違い。線引きは非情なまでに明確だ。

2006年のワールドカップ(W杯)ドイツ大会。ベルリンで行われた決勝戦でPK戦を制したのはイタリアだった。地中海ブルーのユニホームを着た「アズーリ」は、それによって後の4年間を世界チャンピオンと名乗って過ごす栄誉を得た。一方、敗者は多くの記憶を残さない。互角の試合内容を演じたとはいえ、フランスはあくまでも敗者でしかないのだ。

15日、今季途中からYBCルヴァン・カップと名称を変えたJリーグカップの決勝が行われた。対戦したのは、浦和とG大阪。近年のナショナルダービーといってもいい、おなじみの顔合わせとなった。

ちょうど2週間前となる1日、J1第2ステージ第14節で両チームは対戦していた。そのときはここ数年の勝負どころで常にG大阪に煮え湯を飲まされてきた浦和が、これ以上ない完璧な勝利を収めた。G大阪にほとんど見せ場を与えず、サイドを崩しまくっての4―0の圧勝。今シーズンの力関係が変化していることを感じさせる内容だった。

ところが、タイトルを懸けた一発勝負はわからない。G大阪の長谷川健太監督は、見事にチームの修正を図り、結果的に絶対的アウェーとなる埼玉スタジアムでハイレベルな試合を演じた。

中でも前半、G大阪はいわゆる「サッカー頭」の深さを見せた。接触プレーを避ける日本のサッカーに漬かっていると、忘れがちだが、このスポーツは正当に体がぶつかることは許されるのだ。そして「エッ」と思った後に「うまい」とうならされたのが前半17分の先制点の場面だ。自陣センターサークル付近で、G大阪のアデミウソンが遠藤保仁の短く出したパスに反応。背後に浦和の遠藤航を背負った状態だったが、反転しながら柔道の腰車のような状態で遠藤航を吹き飛ばしたのだ。

もちろん、アデミウソンのドリブルのスピードとコース取り。さらに日本人にはない冷静なフィニッシュは見事だった。しかし、ここで思い出したのは、元日本代表DF故・松田直樹さんが2001年3月24日のフランス戦の感想として語った言葉だった。

「ジダンはなにがすごいかって。ケツがすごいんだよ」

松田さんのいうケツというのは腰のことだが、ジダンをはじめフランスやオランダの柔道が盛んな国では、サッカー選手でも柔道経験者が多い。これは倒れたときの受け身、さらに体幹を鍛える目的もあるのだが、結果として体に強さをもたらす。それを考えれば、柔道の本家である日本人がブラジル人選手に柔道技で投げ飛ばされるというのも、皮肉なものがあった。

今回の決勝に関しては、浦和は絶対の自信を持って臨んだはずだ。ところが気づけば1点のビハインドを背負った状態となっている。そのなかで試合のターニングポイントをなったのは、後半31分。浦和の右CKに併せたFW李忠成の投入だろう。浦和は6分前にも186センチのFWズラタンを投入している。李も182センチの長身だ。この選手交代がG大阪側から見れば、CKの守備時の身長のミスマッチを生み、結果的に米倉恒貴が李に競り負けて同点のヘディングシュートを許すことになる。

「これで浦和は勝つよ」。隣に座った“迷信深い"友人がこういった。その根拠は信用ならないものだが、データで見ると確かにうなずける。浦和はJリーグカップで過去5回決勝に進出しているが、準優勝に終わった4回はすべて完封負け。唯一、ゴールを奪った2003年だけは優勝を飾っているのだ。

結果論になるのだが、PK戦とはいえ確かに浦和は勝利を収めた。そして、これがミハイロ・ペトロビッチ監督にとっての日本での初戴冠(昨年の第1ステージ優勝は除く)となった。広島で6シーズン、浦和で5シーズンの指導歴。誰もが「ミシャ」の愛称で知られる指導者が、いいチームを作り魅力的なサッカーをすることはわかっている。ただ、常にタイトル争いに絡みながらも優勝カップに縁がなかった。そのことから、いつの間にか「勝負弱い」のレッテルが張られていたが、それも終わりを告げるのだろう。

初めてとなる優勝会見。ペトロビッチ監督は「ガンバの長谷川監督も、以前はシルバーコレクターといわれた。でも一つタイトルを取ることで、連続してタイトルを取る監督になった。私もそうなればいいと思う」次のステージへの希望を語っていた。そのミシャの望む「ケチャップ・ドバッ」の法則は現実となるのか。そういえば、浦和の赤はケチャップの色によく似ている。そして、Jリーグも大詰めの時期だ。

岩崎龍一(いわさき・りゅういち)のプロフィル サッカージャーナリスト。1960年青森県八戸市生まれ。明治大学卒。サッカー専門誌記者を経てフリーに。新聞、雑誌等で原稿を執筆。ワールドカップの現地取材はブラジル大会で6大会連続となる。