今年で第100回を迎える米国伝統のカーレース、インディアナポリス500マイル(通称インディ500)に初めて日系人が出場したのは、意外にも戦前のことだ。マシンが2人乗りだった1935年、同乗メカニックとして出走した日系2世のタケオ・ヒラシマが、その人だ。ヒラシマが同乗し、ドライバーのレックス・メイズが操るマシンは、なんと予選最高タイムをたたき出してポールポジションを獲得した。

自動車歴史家ドナルド・デービッドソン氏は、この日本では無名の技術者を高く評価する。「ヒラシマはインディ500に出走した初めての日本関係者で、米国のカーレース界の発展にも大きく貢献した。当時のレースカーは今では考えられないほど故障しがちで、同乗メカニックが車両の修理保全を担った。レース中にコースで修理するのは命懸けのこともあり、技術力のほか、手際の良さ、広い視野、状況判断力、そして勇気が必要だった」

スピードに魅了され、高い技術で米レース界を席巻したヒラシマは、数奇な運命をたどった。

ヒラシマのレース人生は車庫の清掃係から始まった。西海岸ロサンゼルス近くで農業をしていた日本移民の家に生まれ、友人のつてで自動車修理工場に就職。車体の改造やエンジン修理などで評判を呼び、車好きが高じて草レースにも出場していた。一線級のレースには、確認できる公的記録では22歳だった1934年にマインズフィールド(ロサンゼルス国際空港の前身)で行われた大会で優勝。翌年には勇躍、聖地インディアナポリスに挑戦する。

インディ500は今も昔もレースの最高峰だ。いきなりのポールポジション獲得で全米をあっと言わせたメイズとヒラシマのコンビは、翌年も好タイムを連発し、再びポールポジションに輝く。だが、決勝では2年続けてマシンの故障に見舞われ、ヒラシマの腕をもってしても挽回できずに優勝は逃した。

日米開戦の後、冒険は終わる。1942年、ルーズベルト大統領が署名した大統領令9066号によって日系人は強制収容所へ隔離された。砂漠に急造された居住用バラックには、すきま風が吹き抜け、一室に5~10人で生活することに。共用トイレは仕切り扉がなく、他人から丸見え。日系人は、自由も、苦労して築いた財産もなくなってしまった。

ヒラシマは「両親は日本生まれだが、自分は米国で生まれ育った」と二つの祖国の間で苦悩した。1年後、日系米国人の忠誠を立証しようと米軍に志願。収容所から出征した。欧州戦線から帰還した戦後、レースの聖地に舞い戻った。マシンは既に一人乗りの時代になっていて、レースで同乗する機会はない。だが、1946年にチーフメカニックを務めたマシンが優勝したのをはじめ、エンジン責任者などで担当したマシンが5度の優勝を飾った。

ヒラシマは強制収容での生活や米軍史上最強といわれる第442部隊での経験については沈黙を守り、レースの栄光についても語ることはなく、本人の言葉は残っていない。しかし、その功績は米国でたたえられ、死後の1998年にモータースポーツの殿堂入りを果たした。背が低かったことから、愛称は「チッキー(ちび)」。だが、大きな仕事をやってのけ、痛快に人生を駆け抜けた。

伊藤 光一(いとう・こういち)1972年生まれ。神奈川県鎌倉市出身。共同通信入社後、社会部、大阪社会部で事件・事故取材などを担当。2009年から運動部でラグビー、プロ野球などを取材し、13年からロサンゼルス支局で大リーグを中心に取材。