プロ野球のキャンプで、どの球団も力を入れるのが宿舎での夜の「ミーティング」である。座学。選手が苦手とする机に向かっての野球の勉強である。

守備面の連携プレー、攻撃面でのサインプレーの徹底、ルールの勉強など多彩なメニューをそろえている。

遊びたい盛りの選手たちを“管理"する格好の場になるのだが、一方、監督にとっては自分の考えを選手に浸透させる絶好の機会でもある。

▽「和田ノート」「真中ノート」

「キャンプでの1カ月間はノート取りばかりだった」。ヤクルトの真中新監督がヤクルトに入団した時の監督は野村克也氏。連夜行われる「野村野球教室」で野村氏が書いたり話したりした内容をノートに書き写すのに必死だったそうだ。

技術論や戦術論が大半だったが、一番記憶に残っているのは「人間として成長しない者はいい選手にはなれない」などといった精神訓話だったという。自然と「真中ノート」は増えていった。

「ノムラの考え」などで披露される野村氏の野球理論や見る目は抜きん出ている。他球団のコーチや研究熱心な選手たちにとって「野村理論」は垂ぜんの的だった。

阪神の和田監督もその一人で「なんとか野村監督のミーティングの内容を知りたいと真剣に考えた」そうである。この話は昨年11月に和田監督と真中監督の「日本大学出身監督」同士の対談に同席させてもらう機会があり、聞いたものだ。

この門外不出の「ノムラの考え」は、野村氏が1999年に阪神の監督に就任したことで、当時の和田選手も直に聞くことができた。以前から書いていた「和田ノート」に新たな野球理論が加わった。監督として、読み返す機会が増えているのではないだろうか。

▽ミーティングの元祖は川上監督

日本プロ野球を選手中心からチーム中心に劇的に変えたのは巨人の川上哲治監督(故人)だった。

巨人が1965年から9年連続日本一の金字塔を打ち立てられたのは、まさにチームを一つにする「管理野球」を完成させたからである。今では当たり前となったミーティングという選手教育の場をフル活用した結果だった。

川上氏は1961年、巨人の監督に就任すると「ドジャース戦法」という野球書に目を付け、それを基に打撃のチームから守りのチームに変え、常勝を成し遂げた。長嶋茂雄と王貞治という「ON」二枚看板だけではとてもV9は達成できなかった。

川上監督がすごいのは当時、巨人ではタブーとされた他球団のコーチを招聘したことだ。元中日の牧野茂氏を参謀に迎え、キャンプといわずシーズン中も連日ミーティングで選手の意識を変え、新しい巨人野球を植え付けていった。

牧野コーチがまとめたものに「野球必敗法70か条」「野球必勝法70か条」がある。

そして川上監督がミーティングで必ず話したのが人生論。「人間として成長しなさい」と口酸っぱく言い続け、選手たちを実際に名を成した政財界人たちと引き合わせた。プロ野球選手のステータスづくりを意識し続けていた、まさに名将だった。

▽監督ランキング

野村氏はこうした川上氏の足跡をじっと見ていたのだと思う。その野村氏が和田監督や真中監督に「自分の野球に一番影響を与えたのは野村さん」と言わせている。指導者冥利に尽きるのだが、野村氏もミーティングという武器をフルに使った一人だった。

先日、ある全国紙が「最強のプロ野球監督」という特集で監督ランキングを記事にしていた。それによると、772票で川上氏が1位、2位は739票の野村氏だった。こうしたアンケートは“人気投票"の要素は否定できず、三原脩氏(6位)や水原茂氏(12位)鶴岡一人氏(8位。いずれも故人)ら昔の監督はどうしても不利になる。1、2位には納得できるものがあった。ちなみに王氏9位、長嶋氏14位だった。

面白いのが3位(468票)の仰木彬氏(故人)。近鉄で1度、オリックスで2度のリーグ優勝(日本一は1度)と実績ではそう高くないが、6度の日本一を西武で成し遂げた森祇晶氏の5位より上だった。

仰木氏が野茂英雄氏やイチローといった個性豊かな選手の才能を伸ばしたことが評価されたのか。本人も個性的で、ミーティングで選手を縛るといったことはなかったと記憶している。

田坂貢二[たさか・こうじ]のプロフィル

1945年広島県生まれ。共同通信では東京、大阪を中心に長年プロ野球を取材。編集委員、広島支局長を務める。現在は大学野球を取材。ノンフィクション「球界地図を変えた男 根本陸夫」(共著)等を執筆