プロ野球ソフトバンクの秋山幸二監督が勇退した。6年間の監督生活で3度のリーグ優勝と2度の日本一。長年、プロ野球記者として秋山選手を見てきた者として、さまざまなことが頭に浮かんでくる。それを書く前に、今年の日本シリーズの前代未聞の幕切れに触れないわけにはいかないだろう。

▽内側を走り過ぎた西岡

10月30日、福岡・ヤフオクドーム。ソフトバンクの3勝1敗で迎えた第5戦はソフトバンク1点リードの九回、阪神は1死満塁だった。

阪神・西岡は一塁へのゴロ。一塁―捕手―一塁と転送されようとした時、西岡が一塁へのラインの内側を走ったと判断され捕手の送球の「守備妨害」で一瞬にして併殺となりゲームセット。阪神・和田監督が審判に抗議する横でソフトバンクの選手たちが歓喜する光景がテレビで映し出されていた。

これが甲子園球場だったら、とぞっとしたが、大トラブルにならなかったのはこのプレーが常に審判の頭に入っているケースで判定が揺るがなかったからである。

打った後に走り出す右打者は一塁ファウルラインがはっきり見えるのに対して、西岡のような左打者はどうしてもラインの内側に入って走り出し、徐々にライン上へ軌道修正しながら走る。だから、西岡が捕手の送球を妨害する意思があろうが、なかろうが、中間地点ではライン上に戻っていなければならなかった訳だが、実際には一塁手前まで内側を走っていた。

各球団はキャンプなどでこうした走塁練習を左打者は行っているものだ。

このプレーで、1年前のメジャーのワールドシリーズ、レッドソックス―カージナルス第3戦を思い出したファンはいただろう。

上原が抑えで登板していた九回、レッドソックスの三塁手が本塁を狙った二塁走者と交錯して二人が倒れ込み走者の進塁を妨害したとして「走塁妨害」と判断され、サヨナラ負けをした。邪魔する意思の有無は関係ないケースで、いいジャッジとされた。

▽メジャーに一番近かった野手

さて、秋山監督だが、選手としての際立った特長は本塁打も打てて盗塁もできる走攻守そろった選手だったことだ。

1981年にドラフト外で熊本・八代高から西武に入団。通算安打は2157、本塁打は437、盗塁は303。30本塁打と30盗塁を同時に達成したのが3度あり、日本でプレーする外国人選手の誰もが「米国でも通用する」と言い、メジャーに一番近い野手といわれたものだ。

当時の根本陸夫監督は有望な若手を米国プロ野球のマイナーへ送り込む英才教育で、将来の中心選手に育てようとした。単なる思い付きではなく長期的かつ組織的に行ったものだ。

秋山は82年からの「一期生」だった。そのとき付き添ったコーチの「秋山レポート」を読んだことがあった。

「打撃のパワー、守備でのクイックな動きと肩の強さは外国人に混じっても見劣りしない。しかし、試合になると練習での力を出し切れない。気持ちの切り替えがうまくいかない。精神的にたくましなれるかどうかが今後のカギ」。

その後の秋山の成長過程を見るにつけ、このレポートの的確さが分かる。西武は大型三塁手として育てようとしていたが、むこうの米国人コーチは外野手としての素質に目をつけ、これが日本球界を代表する外野手への道の第一歩だった。

▽FA権行使で巨人入り寸前まで

もう一つ記憶に残っているのは秋山がダイエー(現ソフトバンク)に移籍して1年を終えた1994年秋、秋山がFA権を行使して巨人入りの話が進み実現寸前までいったことだ。

ダイエーに王貞治氏招聘を実現させていた当時のダイエー根本監督は西武から工藤公康や石毛宏典を獲得して戦力補強していた。そこに降って湧いたように秋山の巨人入りの話が出てきた。

長嶋茂雄監督の肝いりだったそうだ。根本氏は秋山の母親を説得に当たらせ事なきを得たが、この移籍が実現していれば、秋山のソフトバンク監督は実現していなかっただろうし、野球の歴史がまた違ったものになっていたに違いない。

日本の場合、球団のスター選手が監督になる確率は高い。しかし、監督として実績を残せるかどうかはまさに指導力による。秋山が監督としても名を残せたのは立派と言うほかはない。

そういえば、来年のパ・リーグは西武出身の監督が4人もそろう。ソフトバンクは間もなく工藤公康監督となるし、楽天は大久保博元監督、西武は田辺徳雄監督、ロッテは伊東勤監督が来季も指揮を執る。

西武の黄金時代に育った選手ばかりで、しかも伊東監督を除いて、秋山と同じように米国留学経験者だ。各球団が自前の選手を育てるヒントを見る思いである。

田坂貢二[たさか・こうじ]のプロフィル

1945年広島県生まれ。共同通信では東京、大阪を中心に長年プロ野球を取材。編集委員、広島支局長を務める。現在は大学野球を取材。ノンフィクション「球界地図を変えた男 根本陸夫」(共著)等を執筆