ぐんぐんスピードに乗り、50メートルを過ぎた時点で記者が密集するミックスゾーンから早くも感嘆の声が上がった。9月28日、仁川アジア大会での陸上男子100メートル決勝。一気にゴールを駆け抜け、スタジアムの視線を一身に集めながら歓喜に浸ったのは、カタールのフェミセウン・オグノデだった。スタートから爆発力ある走りで他を寄せ付けず、雨で滑りやすくなったトラックをものともしない迫力あふれる激走だった。電光掲示板には「9秒93」のアジア新記録が映し出された。自分にとって、初めて目にした9秒台の走りだった。

昨年12月に陸上担当となって以降、最大の懸案は日本人選手初の9秒台到達に立ち会うことだった。日本スプリント界では1998年バンコク・アジア大会で伊東浩司が10秒00の日本記録を樹立してから、時計の針は止まったままだった。それでも、昨年桐生祥秀(現東洋大)が10秒01をマークしたことで期待は一気に高まり、桐生が走る大会には多くの報道陣が駆け付けた。筆者も快挙を期待し、国内レースにはすべて足を運んだ。スタートからフィニッシュまでの約10秒間は独特の緊張感に包まれ、9秒台が出ずに張り詰めた空気が弛緩する際には「10秒の壁」の存在を感じずにはいられなかった。風など当日の気象条件に加え、競技場のトラックの反発力、さらにはどんなレース展開にも動じない精神力。9秒台で走るには極限まで鍛え上げた肉体の力をフルに発揮するだけではなく、あらゆる条件を味方に付けないといけないと思った。だがそんな考えは仁川の地で同じ「アジア人」によって一蹴された。

男子陸上界の歴史は黒人選手が切り開いてきた。先を行く世界に負けじと、アジアを引っ張ってきたのは日本と中国だった。だが時代の変化を決定づけたのが、今回のアジア大会でのオグノデの走りだった。ナイジェリア出身でカタールに国籍を変更したスプリンターは、近年のアジアの潮流となっているアフリカ出身の「輸入選手」の一人だ。今回は故障により欠場を余儀なくされた桐生と6位に終わった山県亮太(慶大)、昨年の世界選手権で10秒00をマークした張培萌ら中国勢によるライバル史に割って入るだけではなく、一気にアジアの頂点に上り詰めた。

国籍変更によって戦いの場を変えた選手の記録がアジア新記録と認められることにルール上何ら問題はない。今後もこの傾向は加速するだろうし、減退することはまずないだろう。ただ確かにオグノデの走りは衝撃的だったが、それでも初めて触れた「9秒台」の世界に筆者が感慨に浸ることはなかった。仮に10秒を切ったのが張培萌ら中国勢だったとしたら、また別の感情が浮かんでいたのではないかと思う。

張培萌と同組だった予選でのレース後、山県はこう話した。「去年の世界陸上で張さんは10秒00を出して、東洋人は速いと示してくれた。そういう意味でもアフリカ(出身の)選手に負けたくない」。オグノデが100メートルとの2冠に輝いた200メートルで4位に終わった飯塚翔太(ミズノ)も、その存在について「刺激になる」と言った。仁川アジア大会を機に「中東のアフリカ出身選手と東洋人」という勢力図が明確になった。9秒台への挑戦だけではなく、日本人の巻き返しにも注目していきたい。

鈴木 敦史(すずき・あつし)1980年生まれ。北海道出身。2005年共同通信入社。07年からプロ野球オリックス、広島を担当。11年から遊軍、横浜DeNA担当を経て13年12月からバスケットボール、陸上などを取材。