沖縄のボクシング界は元世界ライトフライ級チャンピオン具志堅用高に代表されるようにプロ、アマを問わず個性にあふれたボクサーを数多く生んできた。

沖縄の礎を築き、支えたのが金城真吉さんである。金城さんは興南高、沖縄尚学高のボクシング部監督を務めたほか、東洋大の監督も経験。教え子は約400人ともいわれる。

その金城さんを丹念に取材した沖縄タイムスの連載「名伯楽のミット ボクシング王国・沖縄 金城真吉の道」がこのたび単行本化された。スポーツだけではなく、沖縄の戦後史も映し出す感動の一冊といえるだろう。

全編に金城さんの情熱があふれているが、中でも具志堅、五輪金メダリストの村田諒太、リング禍に遭った名嘉真堅安さんの項を紹介したい。

興南高に入学した具志堅は野球か卓球をやろうとしたが、体が小さくて入部できず、石垣島に帰ることを考えていたという。

金城さんは具志堅の目つきの鋭さに豊かな将来性を感じ取り、同じサウスポーとして左利き独特の打ち方を仕込んだ。高校で学んだ財産を糧に具志堅は飛躍していく。

「右のカウンターが打てないだろ?」。2011年4月、東洋大の監督に就任した金城さんはOB村田の欠点を簡単に見抜いた。村田は国内無敵の存在で、誰も口を出せなかった。

国際大会で実績があまりなかった村田に「おまえの弱点は国内王者で満足していること。もっと考えないと」と遠慮なくアドバイス。その適切な助言がロンドン五輪の快挙につながったといっても過言ではないだろう。

名嘉真さんのくだりは涙なしには読めない。84年6月、日本ライトフライ級のホープ、名嘉真さんは後楽園ホールで初の10回戦に臨んだ。9回、レフェリーストップのTKO負けを喫し、くも膜下出血で意識を失い、生死の境をさまよった。

現在、名嘉真さんは恩納村の実家で療養生活を送る。今年4月、金城さんの顔を見た名嘉真さんは「お父さん」と呼び、握った手を片時も離さなかった。

14年1月9日付で始まった連載は当初、20回の予定だったという。しかし、担当した磯野直記者が取材を進めるうちに教え子たちの輪が広がり、次から次にエピソードが出てくる。自然に回数が増え、終了予定がどんどん延び、5月22日付まで実に60回に及ぶ長期連載となった。

磯野記者は「金城さんが育てた高校王者は延べ40人。それを職業(本職は消防士)ではなく、ボランティアとして45年もやり続けたことにこの人のすごみがある。バックボーンは沖縄の戦後史そのもの。戦争や差別など、沖縄の置かれた逆境をバネに突き進んだ。スポーツ列伝だけでなく『沖縄人の生き方』として読んでもらえたらうれしい。沖縄での指導を辞める金城さんの『花道』を作るつもりで連載を始めたが、余計なお節介だった。きっと死ぬまでミットを構え続けるだろう」と振り返っている。

新刊の問い合わせは沖縄タイムス出版部 098―860―3591まで。(津江章二)