ペレ、ディエゴ・マラドーナ…。サッカーの「神話」を最も多く生んだのが、メキシコシティにあるアステカ・スタジアムだ。10万人以上を収容する、この巨大スタジアムには二つの記念碑が設置されている。そこには、1966年の開場以来記録された、サッカー史に残る伝説のゴールが刻まれている。

一つは、86年のW杯メキシコ大会準々決勝のイングランド戦でアルゼンチンのマラドーナが決めたゴール。いわゆる「5人抜き」だ。マラドーナの現役時代を知らない人でも、一度は映像を目にしたことがあるはずだ。

もう一つはマラドーナの5人抜きから、ちょうど1週間前に生まれた。日本での知名度はそれほどでもないのかもしれない。しかし、その瞬間を目の当たりにした者は、その幻想的なシーンを決して忘れないだろう。それほどまでに美しいゴールだった。

メキシコが自国開催の70年大会以来、W杯では2度目となるベスト8進出を狙った86年大会。ブルガリアとの決勝トーナメント1回戦で、そのゴールは記録された。0―0で迎えた前半34分、中盤右からキャプテン、トマス・ボイがペナルティーエリア前のスペースに浮き球でパス。ボールを受けた技巧派のマヌエル・ネグレテはボールをコントロールすると、再び浮き球での壁パスを狙った。このボールを受けたのが、ハビエル・アギーレ。そう、日本代表の新監督だ。

アギーレは浮き球を正確に右足ダイレクトで折り返して、ラストパス。それを宙高く体を浮かせたネグレテが、見事な左足のジャンピングボレーでゴールに突き刺した。あまりにもアクロバティックで「全国民が震えた」と評された歴史的ゴール。小柄なレフティ、ネグレテのゴールを演出したのが、現役時代のわが日本代表指揮官だったことを覚えている人は、そうは多くないだろう。一連のプレーはインターネットの動画サイトで視聴できるので、ぜひ一度見てもらいたい。

8月11日に来日したアギーレは日本協会と正式契約を結んだ後に記者会見を開いた。契約内容は様々なメディアが紹介するだろうから割愛する。ここでは情報の少ないアギーレの現役時代の印象について記したい。

アギーレが選手として出場し、ベスト8入りを果たした86年大会当時のメキシコは、決して強い国ではなかった。82年のスペイン大会までの12大会中8大会に出場するも、自国開催の70年大会以外はすべて1次リーグ敗退。70年大会を除く7大会の通算成績は20戦で1勝3引き分け16敗と散々なものだった。

メキシコが現在に至る地位を築いていく転換点となったのは、2度目の自国開催となった86年大会のチーム。このとき2年の歳月をかけてチームの強化に当たったのが、後にコスタリカ、米国、ナイジェリアなど、サッカーの“発展途上国"を次々とW杯の決勝トーナメントに導き「ボラ・マジック」と呼ばれたセルビア人のボラ・ミルチノビッチだ。メキシコが新たな局面に突入したのは、この名将によるところが大きいだろう。

このメキシコ代表で、アギーレは中盤で攻守をつなぐ「ボランテ(Volante)」を務めた。ちなみに、日本ではボランチといわれる「Volante」は、ブラジルでは守備的MFの意味合いが強いが、メキシコやアルゼンチンなどスペイン語を公用語とする中南米の国々では、中盤の選手全員を指す総称であることが多い。アギーレの監督就任でサッカー用語の使われ方も変わるのではないだろうか。

話を戻すと、アギーレはハードワーカーであり、ちょっと血の気の多い武闘派の側面もある選手だった。86年大会準々決勝でメキシコは、準優勝した西ドイツとPK戦にもつれ込んだ。だが、冷静さを保っていれば、PK戦の前に勝つチャンスはあった。後半20分に西ドイツのトマス・ベルトルトが退場処分になり、メキシコが数的優位に立っていたからだ。しかし、このアドバンテージをふいにしてしまった張本人が、延長前半10分に2度目の警告を受けて退場となったアギーレだった。これがなければメキシコは、延長戦の残り20分間を1人多い状態で戦えた。ベスト4進出のチャンスは十分にあったわけだ。

現在のアギーレがどういう性格はよく分からないが、いまだに血の気が多いという情報もある。ただ、あまりにもドライな日本代表の選手たちに接していると、極端すぎたフィリップ・トルシエとまではいかなくとも、熱血漢の日本代表監督が必要な気がする。

「とにかく自分たちは国を代表して、国を背負って戦っていることを肝に銘じてもらいたい」。約1時間行われた記者会見で、1番心に残ったアギーレの言葉だ。

ブラジル大会では、他国の観戦者の心をも震わせる死闘に数多く出会えた。そんな中、日本代表が自国の観戦者の心に何も伝えられなかったことを考えると、この言葉がやけに心に響く。

岩崎龍一[いわさき・りゅういち]のプロフィル

サッカージャーナリスト。1960年青森県八戸市生まれ。明治大学卒。サッカー専門誌記者を経てフリーに。新聞、雑誌等で原稿を執筆。ワールドカップの現地取材はブラジル大会で6大会連続となる。