2002年の日韓ワールドカップが開催されたことで、日本には当時の最先端をいくスタジアムが数多く建設された。それでもこの場所は日本のサッカーに携わるすべての人たちにとって特別な場所だった。

東京・千駄ケ谷駅近くにある国立競技場。1958年に建設されたナショナル・スタジアムには、人々の思い出がどれほど詰め込まれているのだろう。新国立競技場建設のために7月から取り壊される現在の「聖地」国立で、5月6日にJリーグ最後の試合が行われた。

Jリーグの試合としては288試合目。ヴァンフォーレ甲府のホームゲームとして行われた浦和レッズ戦は、最後を飾るには内容的にもちょっと寂しい0―0の結果だった。それでも3万6505人の観衆は、何らかの思いを抱いて帰途についたのだろう。

新設されたスタジアムに比べれば、確かに施設面での見劣りはする。ただ、このスタジアムがなければ、現在の日本サッカーの隆盛はなかっただろう。その最大のポイントとなったのは芝生だった。

Jリーグが発足する数年前まで、日本には冬でも緑色を保つ芝生はゴルフ場にしか存在しなかった。当時、現FIFAクラブワールドカップの前身として行われていたトヨタカップは、スポーツ文化のレベルの低さを世界中にさらしてしまうイベントだった。12月に行われることで、ピッチの芝生は常に冬枯れの状態。見栄えをよくするために、茶色に枯れた芝生に緑色の染料を散布するという現在では考えられないズルも行われていた。

「経済大国である日本のナショナル・スタジアムに、なぜ緑の芝生がないのか」

現在は退職なされたが、当時グラウンドキーパーを担当していた鈴木憲美さんたちが日本の芝生環境の整備に立ちあがったのは、外国人から言われたこの言葉がきっかけだったという。

年間スケジュールが常に埋まっている国立競技場でのチャレンジに失敗は許されない。冬でも緑色の芝生を維持するために夏芝と冬芝を同じ土壌で共存させる試みは、あるイベントの開催により可能になった。それが1991年に東京で行われることになった第3回世界陸上選手権だった。この大会に向け国立競技場はピッチも含めた大規模な改修が行われ、夏芝のティフトン芝、冬芝のペレニアルライグラスの2種類を植えるウインターオーバーシーディング方式がとられるようになった。

1989年12月17日、初めて緑の芝生の上でトヨタカップが行われた。イタリアのACミランとコロンビアのアトレチコ・ナシオナルの一戦。トヨタカップが東京で開催されるようになって9年目のことだった。

この国立競技場の芝生育成は、Jリーグ開幕の準備段階と時を同じくした。各スタジアムの建設担当者は、国立競技場に芝生育成のノウハウを学び、そして日本各地に一年中緑色の芝生が生い茂るスタジアムが完成した。

常に整備された芝生のピッチがあれば、ボールは走る。鈴木さんも「芝生が変わったことで日本のサッカーも変わった気がする。パスをつなぐことを重視するようになった」と語っていたが、それは正しいだろう。

日本リーグ時代には存在した、ボールを蹴って走る「キック・アンド・ラッシュ」という戦法は、現在のJリーグでは見られない。プロたちをお手本として育った子供たちは、当然のごとくパス・サッカーを受け入れる。それが結果的に、現在の日本代表の戦い方であるパスを基本としたサッカーにつながっているのではないだろうか。そう考えると、国立競技場の芝生は想像以上に日本のサッカーの進歩に影響を与えたことになる。

近年、各種の大会で日本代表がアウェーに乗り込んだとき「芝生の状態が悪いのでパスがつなげない」という言葉をよく耳にする。その悪環境に順応するために日本国内にも一つぐらい日本代表専用の芝生状態が悪いグラウンドを作ってみてはと思うのだが、そうもいかない。逆に日本のトップ選手は、いかに普段から素晴らしい環境でサッカーをやっているのかということがわかる。茶色の芝生を知っている者からすれば、隔世の感がある。

国立競技場のラストマッチを終えて、照明の落とされたスタジアムで多くの人が名残惜しそうに記念写真を撮っていた。それだけこのスタジアムには人々の思いが詰まっていた。この日本サッカーとともに歴史を刻んだ「聖地」が消滅してしまうのは正直寂しい。ただ立ち止まっていては進歩がないのだろう。芝生と同じだ。新たに建設されるスタジアムが、再びサッカーを愛する者の聖地になることを願っている。

岩崎 龍一[いわさき・りゅういち]のプロフィル

サッカージャーナリスト。1960年青森県八戸市生まれ。明治大学卒。サッカー専門誌記者を経てフリーに。新聞、雑誌等で原稿を執筆。5大会連続でワールドカップの取材を行っている