1980年代、巨人の西本聖は鋭いシュートで打者の内角をえぐった。左足を一直線に天に伸ばす投球フォームを、子どもたちは真似した。ドラフト外での入団からたたき上げ、後の中日、オリックス時代を含め通算165勝を挙げた。ただ、スター集団の巨人では異端だった。ライバルの江川卓に対抗心をあらわにし、マウンドでは相手打者を気迫で圧倒。不服な判定があれば審判員をにらみ付け、交代を告げに来たコーチに降板を拒否したこともあった。職人肌で誤解されやすく、首脳陣と対立したり、事実無根の中傷記事が出たりした。

西本はいま、指導者となっている。今季オフにロッテからオリックスに移籍した。その人望の厚さに驚かされる。ここ2年で計1勝だったグライシンガーは、西本コーチと二人三脚で軸足にタメをつくるフォームを固め、今季はチーム最多タイの12勝と復活した。米大リーグも経験した右腕は「自分が再生できたのはニシモトさんのおかげ。あれほどのコーチはいない」と慕う。新人のシーズン最多登板記録をつくった益田直也も「毎日、新しいことを教えてもらった。知識で打者を打ち取れるようになった」と打ち明けた。外国人から若手まで、誰もが信頼した。

現役時代の印象とは全く違う。当時の鬼気迫る態度はどこから来ていたのか。西本が新人だった75年。当時のコーチたちはドラフト1位の定岡正二に付きっきりだった。ブルペンで並んで投球練習していた西本は「次は自分の番だな。プロの指導者はどんなことを教えてくれるのかな」と連日、希望に胸をふくらませていた。しかし、その期待は最後までかなわなかった。コーチ陣はドラフト外の自分には目もくれずに引き揚げていくのだ。一日の終わりに、落胆しながら沈む夕陽を眺める日が続いた。

西本は、くじけなかった。「自分の人生だから納得するまでやりたい」。練習法は自分で考えた。「肩を冷やすな」という時代にプールで泳ぎ、筋力強化やクールダウンに努めた。下半身を強化しようと、投手陣で初めて内野手に混ざってノックの雨を受けた。電車に乗る際はつま先立ちで内転筋を鍛え、風呂に入ると指立て伏せを繰り返した。入団4年目には大先輩の王貞治からの夕食の誘いを「練習が残っています」と断った。グアム・キャンプでは、休憩時間にビーチで日焼けする江川を横目に、砂浜を走り続けた。意志と努力で、道なき道を切り開いた。「変人」と揶揄(やゆ)され、衝突もしたが、我が道を行った。

配球論や調整法など研究の成果を、現在は惜しげもなく伝えている。この反骨の名伯楽に、本社の設立50周年となる2014年に日本一を目指すオリックスが、投手陣の立て直しを託した。56歳になった西本も「ありがたい話。いい投手が多いから、どんどん勝たせたい」と意気込む。

フランク・シナトラの名曲「My Way」を愛する。その一節にこんな詞がある。筆者が翻訳してみた。

“波乱の人生を生きてきた

探しながら迷いながら

あらゆる道を旅した

自分で決めた道を信じて歩いた"

伊藤 光一(いとう・こういち)1972年生まれ。神奈川県鎌倉市出身。社会部、大阪社会部で事件・事故取材など担当。2009年から東京運動部でラグビー、12年1月からプロ野球を担当。