来月にはロンドン五輪が始まる。今大会から野球とソフトボールが競技から外され、日本球界ではほとんど話題に上らない。2020年五輪での「復帰」を目指しているようだが、それにしてもこの盛り上がりのなさは野球関係者の怠慢では、と思ってしまう。それはともかく、特に五輪イヤーともなると、日本オリンピック委員会(JOC)をはじめ、競技の指導者が助言を仰ぐ一人の脳神経外科医がいる。日本大学の林成之教授がその人だ。

▽「気の緩み」では説明つかない

美空ひばりの歌「柔」の一節に「勝つと思うな思えば負けよ」というのがあるが、「勝ったと思うな、思えば負けよ」とすればどうだろうか。野球などで終盤に追加点を奪い、誰もが「勝った」と思ったら逆転負けするケースは実に多い。他の競技でもよく見かけることだが、その原因を「勝ったと思った気の緩み」と分析されるが、林教授は「メンタル面だけでは説明がつかない」と言っている。

林教授は水泳平泳ぎの北島康介選手の指導にかかわったことで名が知られるようになった。北島選手も一時期、世界記録のペースで泳いでいながら最後の10メートルで失速することがあった。もう少しでゴールだと意識した途端、脳が「もう終わり」と思って体の活動を鈍らせるからだと分析し、あと10メートルを「北島ゾーン」としてコーチが特訓させたそうだ。その結果が4年前の北京五輪の金メダルとなって実った。

▽なでしこジャパン監督も

脳の仕組みを知ることで、今まで感覚的に教えていた指導が科学的な裏付けで「なーんだ、そういうことか」と選手の納得が得やすくなるし、何より指導者自身が「腑に落ちる」のである。

林教授は「勝負脳」という造語の著書もあるが、それらを読んだ一人はロンドンのマラソン女子代表の尾崎好美選手を指導する第一生命女子陸上部の山下佐知子監督で、わざわざ訪ねてきたそうだ。卓球女子の石川佳純選手が外国の遠征先から相談してきたり、多くの選手たちが相談してくると、教授から聞いていた。

今年1月、林教授となでしこジャパンの佐々木則夫監督が週刊誌上で対談したことがあった。その中で、佐々木監督は「著書を大いに参考にさせてもらった。人間の神経細胞には『生きたい、知りたい、仲間になりたい』という3つの強烈な本能が組み込まれている、というのが強く印象に残っている。なでしこは先生が言う最後の3分間のゾーンをつくるための猛練習をやっている」と話した。

林教授は「脳低温療法」の開発で知られる。サッカーのオシム元日本代表監督が倒れた際に行われた治療法がこれ。脳神経外科医として体の構造を熟知していて、目線の大切さや体のバランスの重要性を説いていて「一流選手の姿勢が美しいのも訳がある」と言う。計算上では打てない150キロの速球を打者が打てるのは「イメージ記憶」のおかげで、イチロー選手の“レーザービーム"で走者を刺せるのは「こうして投げたらそこへ行く」と記憶しているからだと説明している。

▽「否定語」は使わない

なにもスポーツに限ったことではなく、林教授の著書には子どもの教育用の本もあり、お母さん方のファンも多い。経営者へも「脳の仕組み」を説いている。プレッシャーに弱い人は結果を先に考えてしまうタイプが多い。目的を達成するための目標を設定してこなすことも肝心。人間、立場を捨てれば、多くの難問が解決するともいう。脳の仕組みから言って、常日ごろ「できない、嫌になる」といった「否定語」を使わないだけでも、人間は前向きになれるといい、経験豊富なベテラン選手の欠点はどうしても否定的に考えるからだと指摘している。

以前、メンタルケアを専門としている岡本正善氏をダイエー球団(現ソフトバンク)に紹介したことがあった。メンタルトレーナーとして活躍した岡本氏は「失敗したり、緊張やプレッシャーを感じる自分を否定しないこと」とアドバイスする。日本のスポーツ界も最近ではさすがに根性論が幅を利かせることはなくなった。心技体の鍛錬だけでなく、もっと「脳科学」を勉強してみてはどうだろうか。

田坂貢二[たさか・こうじ]のプロフィル

1945年広島県生まれ。共同通信では東京、大阪を中心に長年プロ野球を取材。編集委員、広島支局長を務める。現在は大学野球を取材。

ノンフィクション「球界地図を変えた男 根本陸男」(共著)等を執筆