西本幸雄元監督といえば、三つの顔が浮かんでくる。近寄りがたい厳しい顔、哀愁を漂わせる表情、そして柔和な笑顔―である。

弱小チームだった阪急、近鉄(2チームが合併して現オリックス)を鍛え上げ、ともに初優勝に導いた。優勝は阪急で5度、近鉄で2度。手づくりという表現がぴったりする指導法でチームを強くした。

▽時には「監督信任投票」も

時には鉄拳も辞さない激しさは、西本さんの負けず嫌いな性格もあるが、妥協や曲がった事を許さない生き方を表している。

阪急では反抗的な態度を取る選手に「監督信任投票」を実施。不信任や白票があったために辞任を決意し、オーナーが仲介に乗り出して事を収めたのは有名な話である。

▽「非運の名将」の呼び名は嫌い

好敵手であった巨人の川上哲治元監督とは同じ1920年生まれ。2人とも大正生まれには珍しいガンコ者そのものだった。前にも書いたが、大毎(現ロッテ)監督を1年で辞めたのは、オーナーの理不尽さに対抗したためだった。

西本さんは「悲運の名将」と言われるのを嫌った。大毎も含め、20年の監督生活で8度のリーグ優勝をしたが、1度も日本シリーズに勝てなかったことから言われた。そうち5度も「管理野球」の川上監督に敗れている。

▽忘れられない後ろ姿

今でも忘れられないシーンがある。「江夏の21球」で知られる1979年の近鉄―広島の日本シリーズ第7戦。近鉄の本拠地、藤井寺球場は照明設備がなく収容人数も3万人に満たないことから、大阪球場が使用された。

試合に敗れ、小雨が降るグラウンドの中を、1塁側ベンチから左翼スタンド下の臨時ロッカー室に向かう背番号「68」の後ろ姿は哀愁をおびていた。

近鉄担当ではなかったが、「来季も監督をやるかどうか」を聞きたくて何度も後を追おうとしたが、その後ろ姿に一歩が踏み出せなかったことをきのうの事のように覚えている。翌年もリーグ優勝を果たし、81年限りで引退したのだから、聞かなくてよかったかな、と今では思う。

▽「10対0に決まってる」

西本さんが近鉄の監督時代、縁があって共同通信の同僚記者らとシーズンオフに兵庫県宝塚市の自宅を訪ね、ご家族も一緒に食事をすることが5年ほど続いた。

食事の前と後は決まって麻雀だった。1人だけ早く到着したある年、いい機会だからと「1対0で勝つのと10対0で勝つのと、どっちがいいですか」と聞いた。監督の手腕が発揮される接戦で勝つか、楽勝がいいかを知りたかった。

答えは「そんなもん、10対0に決まってる」。西本監督の勝負に対する考えの一端を知った思いだった。

▽強打のチームで「1点」にこだわり

振り返れば、60年の大毎といい、あの79年の日本シリーズといい、スクイズ失敗が勝敗の分岐点だった。強打のチームに育てながら、「1点」を取りにいくスクイズという作戦は、一見矛盾しているように見える。

実際、そのさい配に批判はあったが、10対0のような展開にならなかったら、死に物狂いで1点を奪いにいく、西本監督の勝利に対する執念を、その作戦に見るのだ。

▽「ちょっとだけ足りないなあ」

こんな一面も。現在の西武が、クラウンライターからライオンズを買収したころの話だ。

自宅での雑談の中で「ところで、西武は幾らでクラウン球団を買収した?」と聞かれた。「10億円とか言っていますが」と答えると、「(俺が買うには)ちょっとだけ足りないなあ」と冗談を言ってニヤリ。そんな時の笑顔は、絶対にグラウンドでは見られない、柔和なものだった。

▽パ・リーグ会長を引き受けていたら…

野球評論家時代の83年の日本シリーズの時期だったと思う。当時の福島慎太郎パ・リーグ会長が上京してきた西本さんと会い、将来のパ会長含みで、会長補佐就任を要請したことがあった。

後日、断ってきたのだが、もし現場出身のリーグ会長がパに誕生すれば、セは川上哲治会長になっていたかも知れない。プロ野球界が大きく変わったのに、といつも思った。

もう一つある。84年オフに阪神が監督就任を要請したことがあった。こちらも、阪神は間違いなく変貌していただろう。

29日に行われた西本元監督の告別式は多くの“教え子"ら約650人が参列して別れを惜しんだ。誰も真似のできない「手づくり野球」は後世に伝えられる。西本さんは名監督だった……

田坂貢二[たさか・こうじ]のプロフィル

1945年広島県生まれ。共同通信社では東京、大阪を中心に長年プロ野球を取

材。編集委員、広島支局長を務める。現在は大学野球を取材。ノンフィクション「球界地図を変えた男 根本陸夫」(共著)等を執筆。