ゴルフの石川遼や日本ハムの斎藤佑樹のように、さわやか系が最近“主流"のスポーツ界にあって、日本ハムの中田翔は彼らとは違ったキャラクターで、面白い存在だと思っている。そして若き大砲は、限りなくあの清原和博に近い雰囲気を醸し出している。

▽「ワシの後継者」

2人とも、でっかい体でやんちゃっぽく、どこか大阪のにおいを漂わせているのもそうだし、高校時代に甲子園を沸かせたホームラン打者だったこと、鳴り物入りでプロ野球入りしたことも一緒だ。

中田がプロ入り時に尊敬する選手に清原を挙げたとか、清原が中田を「ワシの後継者」と言ったとか。本音かどうかはともかく、中田への期待の大きさを表すエピソードのなのだろう。それで、「中田翔は清原になれるか」である。

▽鳴り物入りの高校時代

広島市生まれの中田は大阪桐蔭高時代、甲子園大会を含め80本以上の本塁打を打ち、2007年秋のドラフト会議(高校生対象)で4球団から1巡目指名され、日本ハムに入団した。

2年目から1軍出場はあったが、プロ初ホーマーを含め3年目の昨年は9本塁打。今季は全試合に出場し、4番に座るなど7本塁打(15日現在)している。

清原は大阪・PL学園高時代、甲子園大会で今も大会記録として残る13本塁打した伝説の高校球児だった。ドラフトでは6球団が競合し、西武入りとなった。

清原が入団を熱望してやまなかった巨人がなんと同じPL学園高の、もう1人の超高校球児、桑田真澄投手を指名、獲得し、ここから清原の波乱のプロ野球人生がスタートしたのだが、「清原物語」は後日に譲りたい。

▽「欠点」でも共通点

清原は1年目(1986年)に31本塁打、打率3割4厘、78打点で新人王に輝いた。開幕2試合目で途中出場し、初安打を本塁打で飾った。西武で11年間、FAで移籍した巨人で9年間、そしてオリックスで現役引退した。プロ23年間で歴代5位の525本塁打を記録したが、打撃タイトルとは無縁に終わった。

西武は人気面を考え「日本選手が4番打者」の方針を貫けたのも、清原という大砲を持っていたからだが、それは清原自身が勝ち取ったものだ。

清原は中田と打撃で同じような欠点を持っていた。いわゆるドアスイングで、内角球を苦手とした。清原は入団早々から、来る日も来る日も土井正博コーチ(現在も西武コーチ)と「内角球克服」にマンツーマンでスイング改造に取り組んでいたのを、私はよく覚えている。

▽センターから右へ大きな当たり

清原はこんな最多記録を残している。通算1955三振と通算196個の死球。死球は内角という弱点を突かれ続けた証明でもある。

中田も打撃フォームでは試行錯誤を繰り返し、今はスタンスを広く取り、腰をぐっと落とす「がにまたフォーム」で、ほとんどステップせず打っている。

4年目を迎えるシーズン前に、高校の先輩でロッテから大リーグのツインズに入団した西岡剛選手から「両腕を体から離さない撃ち方」を指導され、センターから右方向に大きな当たりが出だした。結果、左翼へも引っ張れるようになる。

実は、清原も左翼よりセンターへの本塁打に特長があった。2人とも持ち前の長打力があればこそ、である。

▽同じ道が開けるか、結果次第

清原が入団した当時の西武は黄金時代。巨人入りを望んだこの新人選手に対する目は厳しかった。2、3年目の清原が遠征先のホテルの食堂で独り食べていた姿は印象的だった。

孤独に打ち克ち、そのうち周りに若手が集まりだし、彼本来の「親分肌」が発揮されていく。今や、清原はテレビや講演会で若い女性にモテモテだ。波乱に満ちた野球人生を「ぶっちゃけ本音トーク」で語るからだ。「ワシはな…」と43歳が切り出すともう笑いの渦。

22歳になった中田は、これまで練習に遅刻して球団から謹慎処分を食らったりしたが、プロとしてやっと地に足がついてきた感じだ。報道陣へも「ボク」で、若かった時の清原も同じだ。中田が「清原の道」を進めるかどうかは、結果をどう残すかに尽きる―。

田坂貢二[たさか・こうじ]のプロフィル

1945年広島県生まれ。立命館大学卒。スポーツニッポン新聞社記者を経て、70年共同通信社入社。東京、大阪を中心に長年プロ野球を取材。ノンフィクション「球界地図を変えた男 根本陸夫」(共著)等を執筆。