トップアスリートが競技の第一線を退いたあとにどんな生活を選ぶか。ひとくくりにはできないけれど、女子柔道の2大会連続五輪金メダリスト、上野雅恵さん(三井住友海上)が進んだ道は、ちょっと珍しいかもしれない。2008年北京五輪を最後に現役を引退した上野さんが選んだのは、大好きな犬にまつわる勉強をすることだった。

もともと動物が大好き。柔道部の寮でうさぎを飼っていたこともあるほどで、現役時代には「選手をしていなかったら犬のトリマーになりたい」と話していたこともあった。だから、日本オリンピック委員会のセカンドキャリア担当者には「金メダリストがそういう道に進むとは聞いたことがない」と驚かれ、指導者になることを期待する周囲には考え直すよう説得されたが、上野さんは意志を貫いた。

「ずっと選手をしてきたのに、いきなり教える側に立つなんて私にはできませんでした。それに、人生をかけてきた柔道だったからこそ、少し離れてゆっくりしたいなと思ったんです」

そうして周囲の反対を振り切り、09年4月、ペットビジネス科のある東京都内の専門学校に入学。学費は所属先の三井住友海上のメダリストへのサポート制度を活用した。

「思い切って飛び込んでみてよかったです」。そう上野さんは振り返る。勝負の世界とはまったく違う、大好きな犬と向きあう生活は厳しくても充実していた。2年の間に、同校認定のペットグルーミング、ドッグトレーナー、動物看護師の三つの資格を取得。卒業後はすぐにでも動物病院やペットショップに勤務できる技術を身につけた。そこで上野さんはどうしたか。動物関連の道ではなく、柔道の現場に戻ることを選択したのだった。

「尊敬するある先生にこう言われました。『あなたには金メダリストとしての経験を活かして、人作りをしてほしい。いずれ人間と動物が幸せに生きる環境作りにつながる。これはあなたにできた役割だよ』って。そんなふうに考えたこともなかったけど、メダリストの立場を生かせるならやっていきたいと思ったんです」

今年2月から道場に復帰。現在は三井住友海上の選手である妹の順恵と巴恵、後輩たちのサポートをしながら、全国各地で開かれる柔道教室や講演で人間と動物との共生について話している。「ペットブームの裏にある乱繁殖の問題や、保健所で毎日のように殺処分されるたくさんの犬や猫がいる現実も含めて、多くの人に動物と一緒に暮らす楽しさと責任を伝えていきたいんです」

選手のときは寡黙な印象が強かったからだろう、「最近はよくしゃべるようになったね」と言われる。「自分でもそう思います。ふふふ」。新しい役割は上野さんをしなやかに変化させている。(スポーツライター・佐藤温夏)