ルールで一番大切な要素とはなんだろう。それは厳しさでもなければ、手心を加えてくれる思いやりでもない。基準が常に一定であることなのだ。

例えば、すし店に行く。いつもとほぼ同じ飲食をして、会計のときに前回より安いのはいいことではない。まして、前回より高いとなれば、誰もが安い値段を基準に「ぼられた」という感じを抱く。そうだったら、ちょっと高いなと思っても予想通りの請求額が出てくるほうがいいのだ。初めから高級店と分かっていれば、客は店の使い方を自らの財布の中身と相談して変える。

19日のJ1第1ステージ第4節。横浜Mとの試合を終えた鳥栖のマッシモ・フィッカデンティ監督の口から出た苦言は、かねて自分自身が抱いていた疑問と一致した。

この試合で鳥栖は1―2で敗れたが、その1点目を失った場面は、判定としてかなり微妙なもの。ただし、フィッカデンティ監督が注文をつけたのは審判の判定にではない。その点はとても紳士的だった。不満の矛先が向いたのは、スタジアム内における得点場面の映像再生についてだった。

「明らかなオフサイド」。確信に満ちた態度で1失点目について振り返ったフィッカデンティ監督は次のように語った。

「フェアプレー、フェアプレーというが、ゴールによっては映像を流したり、流さなかったりする。ゴールを流すならすべてを流さなければならない。都合が悪いのかどうか分からないが…」

つまり、ホーム側に不利になりそうな映像は、スタジアムでは意図的に再生しないというのだ。昨年まで率いていたFC東京のホームゲームでは「ピッチでの試合に集中してもらいたい」という理由から、大型スクリーンでゴールシーンが再生されることはなかった。今季から鳥栖に移ったことで、フィッカデンティ監督はこれまでより多くの映像再生に接することになった。不条理がより目につくようになったのは、そのような経緯もあるのだろう。

先日のゼロックス・スーパーカップもそうだが、日本のサッカーは総じて「責任取りたくありません」の傾向が強い。意図的に、臭い物にふたをしてしまう。テレビの解説者も明らかなハンドなのに「手に当たったように見えますがね」と断定はせずに言葉を濁す。だが、それはその場逃れに過ぎない。将来的なサッカーの発展のためにはならない。問題から目を背けているだけなのだ。

ここで鳥栖がオフサイドとする1失点目を簡単に説明しよう。開始3分、横浜MはGK飯倉大樹が右サイドのファビオに横パス。自陣の深い位置からファビオの縦パスに抜け出した富樫敬真が、鳥栖のGK林彰洋と1対1になってゴールを決めた。問題はそのファビオの縦パスが、富樫に渡る途中に中村俊輔がいたこと。中村がもし触っていればオフサイドということだ。

スタジアムで見ている限り、中村がボールに触れているかはまったく分からなかった。自宅で映像を確認しても、それは同じという微妙さだ。ただ、問題のプレーは鳥栖のベンチのすぐ近くで起きた。鳥栖の左サイドバック・谷口博之が「シュンさんに触った」とすぐにオフサイドのアピールをしていたことを考えると、おそらくオフサイドだったのだろう。それを考えれば、鳥栖は不運な形で勝ち点を落としたことになる。

ただ、判定が一方だけに不利になることはまずない。ミスはあったとしても、それはシーズンを通して平均すればほぼ同じになる。判定ミスやさまざまな要素も含めて、それがサッカーなのだ。

その意味で日本のサッカーは、本来ならば清濁併せて楽しむことのできることでも、「お上の検閲」により削られている要素が多い。確かに明らかな判定ミスがスタジアムで映像として流されれば、極端な場合は暴動になるという人もいる。日本ではそこまでのことは起きないと個人的には思う。それよりもサッカーに起こり得る多くの要素を、観客が自ら考えて理解する機会が与えられる方がいい。それによって審判の技術も向上するならば、スタジアムでは映像を公平に流すべきだ。

そのときに最も大切なのは、もちろん基準が一定であること。スタジアムの映像に“キング・カズ"のゴール場面が再生される。そうしたら、例え敵といえども大喜びしないサポーターはいないだろう。

岩崎龍一(いわさき・りゅういち)のプロフィル サッカージャーナリスト。1960年青森県八戸市生まれ。明治大学卒。サッカー専門誌記者を経てフリーに。新聞、雑誌等で原稿を執筆。ワールドカップの現地取材はブラジル大会で6大会連続となる。