女子サッカーの試合を、最初に見たのは1981年の9月だった。香港で開催された第4回アジア女子選手権に出場するために日本初の女子代表チームが結成されたのが同じ年の6月なので、偶然にも現在の「なでしこジャパン」の源流を目にしたことになる。

ただし、東京都北区の西が丘サッカー場(現・味の素フィールド西が丘)に足を運んだ動機は、極めて不純だった。日本女子代表と対戦するイタリア代表のエリザベッタ・ビニョットの存在だ。欧州屈指の点取り屋は、美人としても有名だった。二十歳そこそこの若い男子が「一目見てみたい」と思っても不思議はないことだ。

試合は日本が0―9の大敗を喫した。それまで男子の試合しか見たことのなかった自分にとっては、日本代表といえども女子のサッカーはあまりにも物足りなかった。当時の女子代表は、日本サッカー協会(JFA)からの支援もほとんどなかったはずだ。「日の丸をつけるだけでも、彼女たちにとってはご褒美なのだろう」。それが、その時の偽らざる印象だった。

競技としての女子サッカーが素晴らしい。そう思うようになった契機は2004年4月24日。アテネ五輪の出場権を掛けたアジア予選準決勝の北朝鮮戦だった。

アジアに与えられた出場枠は2。この試合を落とせば、五輪に出場できない―。そんな状況で北朝鮮を東京・国立競技場に迎えた日本は、前年のアジア選手権で0―3の完敗を喫した相手を驚くべき粘りで逆に3―0で葬ったのだ。しかし、内容を見れば圧倒的に攻め込まれた試合だった。

アテネ五輪の本大会を前に現在の愛称である「なでしこ」と呼ばれるようになったチーム。この北朝鮮戦でゴールを守ったGK山郷のぞみさんを、後にインタビューしたことがあった。山郷さんは、猛攻にさらされた試合を思い返し、こう表現をした。「絶対に失点するとは思わなかった」と。

冷静に考えれば、この「絶対」には何の根拠もない。だが、思い込みにも等しいこの「絶対」こそが、その後に信じられない奇跡を次々と起こしたなでしこの精神的よりどころになったのではないだろうか。

「絶対に諦めない」「絶対に逆転できる」…。なでしこの選手の口からは、いつもこんな言葉が語られてきた。同時に、この「絶対」がどれほどの日本人を勇気づけてきただろうか。

11年ドイツW杯、12年ロンドン五輪、そして、15年カナダW杯。3連続で世界大会のファイナルに進出し、一つの金メダルと二つの銀メダルを獲得したチームが、リオデジャネイロ五輪の出場権を逃したことは大きな衝撃だった。五輪本大会への連続出場も3回で途切れることとなった。とても悲しいことだ。

ただ、冷静に考えてみると女子サッカー界で最も強豪がひしめくのがアジア地区だ。そこで、なでしこが常に圧倒的な強さを示してきたわけではない。苦労して予選を突破し、世界大会でも時に運を味方に付けて紙一重での勝負を制してきた。どの時点で負けても不思議がない状況でも勝ち進んでいくからこそ、人々の心に訴えかける感動をもたらしてきたのだ。圧倒的な力を誇る米国が勝ち進んでも、こうはいかないだろう。

五輪の出場権を逃した後の報道を見ると、日本のメディアは失礼なことをするなと思う。そう、手のひら返しだ。敗因探しの言葉を並べ、佐々木則夫監督や選手がスケープゴートにされている。本当に責められるべきは、「なでしこ」というブランドに胡坐(あぐら)をかいて手を打たなかったJFAのはずだ。筆者は試合を見る程度で知識がないから、偉そうなことは言えない。それでも、普段から取材している記者が「後出しじゃんけん」のように問題点を挙げる記事を見ていると、先に提言できなかったのかと思う。日本のサッカーをより良い方向に導く義務は、メディアにもあるはずだ。

繰り返すが、なでしこは私たちに多くのものを与えてくれた。サッカーファンは、男子では限りなく難しい「世界チャンピオンの国の人」になることができた。国中が無力感と絶望感に包まれていた5年前、日本国民は彼女たちに再び立ち上がるための力をもらった。そのためになでしこたちが注いだ努力は、恐らく常人には理解できないレベルに達していたはずだ。

サッカー協会が全面的なサポートする米国。男子プロリーグの傘下として活動する欧州勢。そして国家プロジェクトとして支援されている中国や北朝鮮。そんな中、日本の女子代表選手はその多くが、バイトの時間と生活費を気にしながらプレーを続けている。JFAの規模の膨らみを考えれば、女子の待遇は1981年当時とさほど変わっていないということになる。

「サッカーファミリー」。JFA関係者からよく発せられる言葉だ。いまはこの言葉を信じたい。本当の家族というものは窮地に陥ったときこそ自分の身を投げ出してでも必ず手を差し伸べてくれる存在であるはずだ。そして、なでしこは「絶対」に復活してくれるだろう。

岩崎龍一(いわさき・りゅういち)のプロフィル サッカージャーナリスト。1960年青森県八戸市生まれ。明治大学卒。サッカー専門誌記者を経てフリーに。新聞、雑誌等で原稿を執筆。ワールドカップの現地取材はブラジル大会で6大会連続となる。