2月2日深夜、キャンプインしたばかりのプロ野球界を、衝撃的なニュースが駆け巡った。

「清原和博が覚せい剤所持容疑で逮捕」。2年前に週刊誌で薬物疑惑が報道されていたが、いざ逮捕されてみると、これまで見てきた清原のさまざまな一コマが次々と浮かんできた。

興味ある取材対象者だった男の転落に、やたらさみしさが募ってしまった。

PL学園高時代、甲子園の中段席に届こうかという特大の一発。1985年ドラフトでの涙。西武球場初訪問時の晴れやかな笑顔。巨人との87年日本シリーズ最終戦のV直前の涙。中日との88年日本シリーズ初戦で両軍選手の度肝を抜いた160メートル弾。FA制で念願の巨人入団を果たした会心の笑み。

バッシングと戦う巨人時代の怒り。選手引退後のテレビで見せるひょうきんな一面―などを思い出した。

▽孤軍奮闘する姿

プロ入り後は常に“孤軍奮闘"。清原の周りに選手はあまり寄って来なかった。高校からスター選手だったことで自分から人に寄り添うことはなかった。

孤高とは少し違うが、他人に少しでも弱さに見せまいと懸命に努力していたように思えた。「常に強くありたい」。それもこれも「運命のドラフト」が分岐点だったと思う。

▽1985年秋のドラフト

新興西武が台頭して巨人との球界盟主争いが激しさを増していた中で開かれた1985年秋のドラフト会議。注目はPL学園高が誇る清原と桑田真澄の「KKコンビ」の動向だった。

清原は早くから憧れの王貞治氏が監督をする巨人を熱望。一方の桑田は早大進学を打ち出し、各球団とも指名を見送る方針だった。桑田の進路に疑いを持っていたのは西武ぐらいだった。

巨人が単独指名したのは桑田であり、清原は西武、中日、阪神、日本ハム、南海(現ソフトバンク)近鉄(現オリックス)の6球団競合となり西武がくじを引いた。

このドラフトで西武は巨人の出方を探るかのように、球団6年目にして初めて「清原を指名する」とドラフト戦略を公にし、言外に「清原が駄目なら桑田」をにおわせた。巨人はぎりぎりまで「どうしたら両方が取れるか手はないか」を議論し、最後は「確実に取れる桑田」に決めた。下手すれば、桑田まで西武に指名されかねない心配があったのだ。

▽仲を引き裂かれた二人

ドラフト直後の清原はひと言もしゃべらなかったが、巨人そして親友・桑田への恨みの感情がむき出しになっていたのはその表情が物語っていた。

なるほど、巨人は王監督の意向もあり投手最優先、特に桑田獲得を軸にドラフトに臨もうとしていたし、清原が巨人を熱望したのも一方的と言えなくはない。

ただ、PL学園高専任のスカウトが日参する状況を考えれば、清原が「裏切られた」と感じたのも確かだった。しかも手を取り合って甲子園夏優勝2度は「KK」によるもの。そんな仲を引き裂いた巨人のやり方は強烈だった。

早大が所属する東京六大学連盟はその後、PL学園高から選手を取っていない。

▽ポスト長嶋、王

野球に詳しくない人でも、高校時代から活躍していた清原は知っていた。長嶋茂雄、王両氏が引退したプロ球界に現れたスター選手で、向こう20年間は大丈夫とも言われたほどだった。

「巨人に行けないのなら日本生命でプレーして3年後を待つ」とまで言っていた清原も西武に入団。188センチの大きな体からの並外れたパワーで高校生ルーキーとして最多の31本塁打と華々しいデビューを飾った。

特に右中間への本塁打は実によく伸びた。そんな清原は無冠の帝王、つまり本塁打や打点など打撃タイトルを一つも取っていない。

22年間の主な成績は2122安打、525本塁打(歴代5位)、1530打点(同6位)。196死球と1955三振は最多。それよりシーズンMVPや日本シリーズMVPを獲得していない方が不思議だった。

記憶に残る清原の打撃だが、「ポスト長嶋、王」になり切れなかった理由の一端を見る思いだ。

▽過度の上半身強化

タイトルを取れなかったことで、徐々に清原の打撃に影響を与えたと思う。

例えばタイトルを狙って本塁打数を増やす喜びより「強い打球や遠くへ飛ぶ本塁打」を追い求めるようになる。それが過度の上半身強化に結びついたとも思える。

勢いけがが多くなり、その痛みを和らげるために薬物に頼ったとも考えられる。

清原の西武内での位置は年々難しくなっていった。当時の堤義明オーナーはスター選手好みで、特別扱いされる分、他選手との距離は開いていったのである。

西武は清原が入団した年から森祇晶監督の下で黄金時代に入る。優勝すればハワイ旅行が定番だった。

20歳前後の清原は帰国すると一人タクシーで埼玉・所沢市の根本陸夫管理部長宅に直行して一日を過ごしたりした。心を許す友だちがいなかったのである。そのうち、チームの外に仲間を持ち、遊びを覚えるようになった。

▽念願の巨人入り

清原は西武で11年間プレー。日本シリーズで巨人に勝つこと3度。しかも90年には4連勝と完膚なきまでに巨人を倒し「巨人時代が終わり、西武の時代」を実感する。

しかし「FA権を得ると巨人のことが再び頭をもたげてきた」(自叙伝=男道 清原和博)。長嶋監督の期待に応え、なお85年ドラフトのリベンジを果たす絶好の機会だった。しかし、そこで感じたことは「巨人の冷たさ」と「ピークを越えた自分の実力」だった。

今後の捜査の結果を待たなければならないが、覚せい剤を使用し出したのが巨人入団2年目あたりだとすれば、清原の精神的弱さがもろに出た格好であろう。

▽「大学へ行かせたかった」

巨人へのFA移籍前後の清原を心配する人がいた。当時のダイエー(現ソフトバンク)の根本陸夫球団社長だった。西武からダイエーにヘッドハンティングされたとはいえ、85年秋のドラフトで清原をくじで引き当て、その後も孤立しがちな清原の面倒を見ていた。

その根本氏(1999年他界)がぽつりと漏らした言葉は「清原を大学に行かせたかった」だった。

プロ入りして何年もたっていて、聞いた瞬間はびっくりした。「野球ができるというだけで何の人生訓練も積まずにやってきた。大学でも社会人でも何年か在籍すれば、話せる友だちはできるし、社会へも目を向けられただろう」

おそらく、根本氏の耳にも、髪を茶色に染めるなど清原の容姿に大きな変化が起こっていて球界外の“危険な人間関係"を心配してのことだったと思った。

もう一つはプロ野球界がそうした未熟な選手の受け皿を作っていないこと。選手を育てるという観点からドラフト制の欠点と言われてきた。1年目だろうと、成績さえ残せば誰も文句が言えないのである。

プロ野球は昨年の野球賭博事件に続く不祥事である。しかも、実に身近に反社会的勢力がいる実態が明らかになった。まずやらなければならないのは「ただ飯を食うな」だろう。

田坂貢二[たさか・こうじ]のプロフィル

1945年広島県生まれ。共同通信では東京、大阪を中心に長年プロ野球を取材。編集委員、広島支局長を務める。現在は大学野球を取材。ノンフィクション「球界地図を変えた男 根本陸夫」(共著)等を執筆