キックオフのホイッスルから5分で、試合が決まってしまっても不思議ではない。それくらい、勢いに差があった。10月31日にJ1鹿島とG大阪の間で争われたヤマザキナビスコ・カップ決勝。臙脂(えんじ)のユニホームは試合開始直後から昨年の三冠王者のゴールをこじ開けようと、文字通り猛烈な勢いで襲いかかった。それは、久しぶり見るにすごみのある鹿島の姿だった。

開始30秒過ぎに金崎夢生がファーストシュートを放つと、2分には中村充孝のポストプレーから遠藤康が決定機。さらにオフサイドにはなったが、4分には赤崎秀平がG大阪ゴールへと迫る。カップ戦の決勝は相手の出方をうかがう慎重な立ち上がりが多いが、そんなことはお構いなしにいきなり猛攻を仕掛けた鹿島の姿勢は、タイトルに対する飢えをそのまま表していたのだろう。

3―0での文句のつけようのない完勝。クラブ17冠目にして初の日本人監督(宮本征勝監督の1993年のステージ優勝は含まず)となった石井正忠監督。彼が記者会見で明かした、この選手の一言がかなりの重さをもって選手たちの心に響いたみたいだ。

「勝つのと負けるのとでは大違いだ」

今回のタイトルも含め自身14冠となったキャプテン小笠原満男が、試合前のミーティングでそう発言したという。野武士然とした寡黙な男にこんな言葉を投げかけられたとしたら、若い選手たちはやるしかないだろう。

その小笠原が常々いっているのが「優勝しなければ見えないことがある」だ。準優勝では、のぞき見ることのできない特別な風景がある。それを共有することで、Jリーグ最多のタイトルを誇る鹿島というクラブは「勝者のメンタリティ」を受け継いできたのだ。

決勝を前にしてのデータは、決して明るいものではなかった。今シーズンのリーグでは鹿島はG大阪に対して2連敗。公式戦でも4連敗中だ。その相手をたたくには、気持ちで上回るしかなかった。そして、この試合に限れば、勝ちたいという気持ちはG大阪より鹿島の方が上回っていた。

試合開始直後から繰り広げられた素晴らしい攻撃。それは安定した守備があったからこそ実現した。攻撃の「前線基地」となるG大阪のパトリックに対しては、黄錫鎬(ファン・ソッコ)と昌子源が厳しいマークでボールを収めさせない。さらに2トップの金崎と赤崎もパスの出所を追い回し、G大阪の選手に攻撃の自由を与えない。足元でのパス出しの微妙なズレは、前線に行けば行くほど大きな誤差となる。その乱れたパスを、鹿島は小笠原と柴崎岳の2ボランチが易々と回収する。それは、鹿島がいい形で攻撃できるということを意味していた。

鹿島とG大阪の戦いは、ともに日本を代表する司令塔である同学年の小笠原と遠藤保仁の戦いとしても注目された。そして、結果は小笠原の完勝だった。鹿島の1、2点目を生み出した2本のCK。さらに3点目の起点にもなり、奪った全得点にすべてに絡んだ。

特に後半15分、黄錫鎬のヘッドにピンポイントで合わせた左CKのキックは、大きな価値を持った。攻め込みながらも奪うことのできなかった1点。精神的に苦しい状況で生まれた先制点は、間違いなく鹿島の選手たちに落ち着きをもたらしたはずだからだ。

本人は「たまたま近くにいたから(CKを)蹴っただけ」といっていた。しかし、それまで左利きの遠藤が蹴っていた球筋とは違う、小笠原の右足によるインスイングのボール―それが必ずしもゴールに結びつく要因とはいえないが―にG大阪守備陣の視線が変わったことは間違いないだろう。

得点のお膳立てはもちろんだ。しかし、それ以上に小笠原に価値があるのは、「自らの背中」でチームを牽引したことだろう。激しい寄せからのボール奪取。この試合で何度も見られたが、173センチの体をぶつけ189センチのパトリックからボールをからめ捕る。高い技術と判断力を、戦う心を持って発揮する。その姿は鹿島のみならず、すべてのサッカー選手のお手本といえた。

史上最年長、36歳のMVP。誰が見ても当然のことだった。ただ気になるのは小笠原が「今後も僕らの年代が、Jリーグを引っ張っていける存在でいたい」と発したときだった。周囲はこの言葉を、何の疑問も持たずに受け入れたのだ。

1999年ナイジェリア・ワールドユース選手権準優勝メンバーには、小笠原、遠藤の他にも本山雅史、小野伸二、稲本潤一など現役を続ける選手が多い。確かに、彼らを超える若手はほとんどいない。それは、かなり問題ではないだろうか。

岩崎龍一[いわさき・りゅういち]のプロフィル

サッカージャーナリスト。1960年青森県八戸市生まれ。明治大学卒。サッカー専門誌記者を経てフリーに。新聞、雑誌等で原稿を執筆。ワールドカップの現地取材はブラジル大会で6大会連続となる。