「ガラケー」という言葉がある。日本で独自の発展をした従来型の携帯電話を呼ぶ造語「ガラパゴス携帯」の略だ。そして、日本のサッカーもまた、世界標準から外れた“ガラ系"へと進化を遂げているのではないか―。

そんなことを、2分け1敗の最下位に終わった東アジア・カップを観戦して思った。Jリーグの選手のみで構成された日本代表は、良くも悪くも「日本らしさ」を見せてくれた。だが、サッカーという競技の本質に照らすと「ここが変だよ 日本人」。そう突っ込みたくなる場面が随所に見られた気がする。

突然ですが、ここで質問です。勝利のみが求められる試合に出場したあなたが、次のシチュエーションで選択するのはどんなプレーだろうか。

前半残りあと1分。同点で迎えたFK。相手ゴール前には味方が4人上がっている。そのFKを右に展開したら、相手DFの寄せが甘くほぼフリーで右サイドバック(SB)がボールを持てた…。そんな状況で勝負しない選手はいない。誰もがそう思うに違いない。

ところが、現在の日本サッカーでは、常識では考えられないことが平気で繰り返されている。しかも、そのことに対し「それは間違っているだろう」との指摘もなされない。こんな日本の“ガラ系"サッカーに対し、違和感を持つ人は多いのではないだろうか。

最終戦の中国戦。前半44分に前述のプレーは起きた。ピッチ中央のFKを宇佐美貴史が右へ展開。ライン際にポジションを取った丹羽大輝には、十分なスペースと時間があった。ところが、丹羽はゴール前へのクロスを狙うそぶりさえ見せないで、後方の山口螢にバックパス。山口からのリターンパスを、今度は相手ゴール方向に向こうともせずに、最終ラインの森重真人に返してしまったのだ。

体を張ってFKを獲得した遠藤航を始め、中国ゴール前で送り込まれてくるはずのボールを待ち構えた日本の選手たちはこのプレーをどう思ったのだろう。確かに本来センターバックの丹羽が右SBを務めたというポジションの不慣れはある。ただ、プロの選手が相手DFと5メートルも離れている状況でクロスの1本も上げられないとは考えにくい。

さらに問題なのは、―本心はどうであれ―クロスを入れなかったことに対してチームメートが文句を言うこともなく、淡々と試合が進んだことだ。クロスを入れることが必然の場面で、それを実行しなくても批判されることのない環境。それは、ある意味で日本サッカーの異常さといえるだろう。

この場面は、明らかに丹羽の判断ミスだ。ただ、状況に応じて優先すべきプレーを教えてこなかった日本の育成環境にこそ、問題の根本がある。間違いを、その場で指摘してこなかった指導者たちに非があるのだ。その結果だろうか、日本にはやるべきことをやらない選手がプロのレベルでも驚くほど多い。おそらく、欧州組はポジションを失うのでそのセオリーを外すことはないと思うのだが。

日本人は他の国にくらべ、戦術やフォーメーションについて語ることが驚くほど好きだ。だが、突き詰めると、サッカーにおけるプレーの最少単位は「個人」になる。その個人が技術を繰り出す上で欠かせない「判断」という普遍の戦術を身につけていなければ、システムがうまく機能するはずはない。ところが日本では、この「個人戦術」があまりにもおろそかにされている気がする。

第2戦の韓国戦。バヒド・ハリルホジッチ監督は後半25分、スピード豊かなアタッカー浅野拓磨を投入した。浅野はその直後と同38分に韓国のペナルティーエリアに侵入したものの、2度とも安易なバックパスを選択。まったく脅威にならなかった。

そのプレーを見てハリルホジッチ監督は頭を抱えていたが、それは浅野のプレーが世界のサッカー常識から外れていたからだろう。点を取ることが何よりも求められる途中出場のアタッカー。それがPKをもらえるペナルティーエリア内で、初めから勝負を諦めたことに驚いたのだろう。チャンスを与えられてもチャレンジしない20歳というのは、海外ではまず考えられないことなのだと思う。

1993年のJリーグ発足当初、確立したサッカー理論を持つプロの日本人指導者は皆無に近かった。それが来日する外国人監督の手法を学び、いまでは数多くの日本人監督がJリーグを初めとしてさまざまな立場で手腕を発揮するようになった。

ただ、成果の一方で少し気に掛かることもある。それは、指導者たちがサッカーの目的と手段をはき違えてしまったのではないかということだ。得点意欲があまりにも希薄な日本の“ガラ系"サッカー。それを見ていると、この競技の本質を見直した方がいいように思える。

岩崎龍一[いわさき・りゅういち]のプロフィル

サッカージャーナリスト。1960年青森県八戸市生まれ。明治大学卒。サッカー専門誌記者を経てフリーに。新聞、雑誌等で原稿を執筆。ワールドカップの現地取材はブラジル大会で6大会連続となる。