セ・リーグは昨年Bクラスだった中日、DeNA、ヤクルトがそろってAクラスの好成績で首位から最下位まで4ゲーム差(4月14日現在)の混戦。始まったばかりとはいえ、やはりペナントレースはこうでなくては面白くない。

中でもDeNAはいわゆる「勝利の方程式」、つまりリードした場面で救援投手陣につなぐ展開で勝つ試合が増えた。

これは、最後に息切れして5位に終わった昨シーズンから見られた展開なのだが、抑えの切り札を得たことが大きい。

中畑監督はそのクローザー役に、昨年は三上(法大からJX―ENEOS)、今年は山崎(亜大)と新人を抜擢した。もちろん、4番・筒香に象徴されるチーム力アップが根底にある。

▽山崎は短いイニングで力発揮

昨年、21セーブを挙げた三上がキャンプの段階で右肘炎症で戦列を離脱する大ピンチ。これを救ったのが山崎で、無傷の4セーブと期待以上の働きをしている。

山崎は昨秋のドラフト会議でDeNAと阪神が有原(日本ハム)の外れ1位で指名が競合し、DeNAが獲得した。東都大学リーグでは通算15勝6敗でナンバーワンの評価を得ていた右腕だったが、指名した阪神もおそらく先発要員としてより救援投手として期待していたと思う。

亜大では1年から登板したが、2年上に東浜(大学通算35勝、現ソフトバンク)、1年上に九里(同18勝、現広島)がいて、山崎の役割は救援だった。

1、2回の短い投球では球威、制球力とも抜群で相手をねじ伏せる投球ぶりに評価は高かった。2年間みっちりリリーフの経験を重ねたのだ。

3年から九里の二番手として第2戦の先発を任され勝利を重ねたが、4年になると自滅したり打者にとらえられる登板が目についた。

スカウトの評価が分かれ出し「1巡目の1位指名」が見送られる結果になったと思う。ただ、山崎本人は帝京高時代からプロ入りを目指していたし、心に期すものがあったと思う。マウンド度胸もいいし、今の活躍も不思議ではない。

▽「8時半の男」で救援投手にスポット

今のプロ野球は救援投手抜きでは考えられないし、その存在が勝敗に直結することが多くなった。各球団ともクローザーの育成、補強に躍起となっている。巨人は今季から沢村にその役割を託している。

メジャーでは1948年ごろから救援専門の投手がいたようで、1960年には「ファイアマン(火消し)賞」が登場した。

投手の職業病ともいえる肩、肘の負担が心配される今日では、先発投手は100球あたりが限度になりつつあり、救援投手への比重がさらに大きくなっている。

日本での救援投手といえば、巨人の宮田征典投手が草分け的存在。川上哲治監督が心臓に疾患がある宮田を負担の少ないリリーフとして起用した。

今と違ってイニングをまたぐロングリリーフが当たり前だった。宮田投手は、だいたい夜8時半頃になると登板することが多く「8時半の男」といわれ人気となった。巨人のV9がスタートした1965年に20勝を挙げたが、そのうち19勝を救援で稼いだ。

日本でもメジャーを追うように救援投手を評価するようになり、今では億を稼ぐ救援投手は珍しくない。「ハマの大魔神」こと佐々木主浩氏はメジャーでも活躍したし、中日・岩瀬は昨年までクローザーの象徴である「セーブ」を通算402まで積み上げた。

さらに、かつての阪神で「JFK」といわれたジェフ・ウィリアムス、藤川球児(現レンジャーズ)久保田智之の救援トリオが威力を発揮したことで、抑え役だけでなく中継ぎ投手にも「ホールド」や「ホールドポイント」を設けて報いるようになった。

▽球史に残る「江夏の21球」

救援投手の象徴はなんといっても江夏豊氏だろう。1979年、近鉄―広島の日本シリーズ第7戦(大阪球場)で広島・江夏が1点リードで迎えた九回裏、近鉄の無死満塁のピンチを抑え優勝を決めた。この全投球が「江夏の21球」である。

この江夏氏を先発から救援に転向させたのが、江夏氏を阪神から獲得した野村克也南海監督だった。当時、南海には佐藤道郎氏という救援投手がいたが、野村監督は「最後を締めくくる専門投手」が欲しかった。

すでに江夏氏はピークを過ぎていたとはいえ数々の記録を残す超大物。「これからは日本でも投手は分業制になる」と口説く野村監督の声には横を向いたままだった。

そこで野村監督は「お前、リリーフの分野で革命を起こしてみんか」。これが決め手となり、クローザー江夏の誕生となり、広島時代の「江夏の21球」の伝説を生んだ。

田坂貢二[たさか・こうじ]のプロフィル

1945年広島県生まれ。共同通信では東京、大阪を中心に長年プロ野球を取材。編集委員、広島支局長を務める。現在は大学野球を取材。ノンフィクション「球界地図を変えた男 根本陸夫」(共著)等を執筆