全く力感のないゆったりとした動作にもかかわらず、放たれたボールは空気抵抗を忘れたかように50メートル、60メートルと伸びていく。今オフ、フリーエージェント(FA)権を行使してロッテからヤクルトに移籍した成瀬善久投手のキャッチボールは見ものだ。本人がこだわる、きれいな縦回転のスピンが生み出すボールの軌道は、芸術的とさえ言いたくなる。

成瀬と言えば、神奈川・横浜高を出て4年目の2007年に16勝1敗、防御率1・81とブレーク。右手のグラブを頭の上まで高く掲げる「招き猫投法」とも呼ばれる独特なフォームで、投球ぎりぎりまで打者に球の出所を見せず、球速表示は130キロを少し超える程度ながら伸びのある直球で次々と打者を詰まらせていく。オリックスを担当した2010年、本塁打王に輝いたT―岡田外野手

から「一番球が速いと感じる投手はファルケンボーグ(当時ソフトバンク)か成瀬さん」と聞いた事があった。このシーズン、オリックスは成瀬に7戦7敗とねじ伏せられ、クライマックスシリーズ進出をロッテにさらわれている。ここ2年は左肩痛に悩まされて1桁勝利にとどまっているが、成瀬の投じる130キロには「キレ」の美学とでも言うべき、スピードガンに表れない威力がある。それは

150キロ台後半の剛速球にも匹敵すると、実際に対戦する打者は感じている。

成瀬は、球速表示への欲について「ないと言ったら嘘になる」と笑いながら「意識したのは中学校まで」とした。速球に自信を持って横浜高に進んだものの、周りのレベルの高さにスピードでは勝てないと判断。渡辺元智監督のアドバイスで、球持ちの良さや打者からの見えづらさを意識して練習に取り組むようになった。勤続疲労からくる左肩痛とはうまく付き合っていくしかないが、この冬に遠投をこなせているのはいい兆候だという。遠投は成瀬にとって、回転数の多いきれいなバックスピンを確認する大事な作業で「50メートルくらいの距離を、きれいな回転で、落ちないような球が投げられるようになってくれば、真っすぐの質は徐々に良くなってくると思う」と手応えを感じている。

米大リーグでは投球の軌道を細かく分析・数値化する特殊カメラが各球場に設置され、変化球の変化幅などが分かる「PITCH f/x」というデータが観戦者の新たな魅力となっている。「PITCH f/x」は投手から捕手方向へボールが無回転で進んだ場合を基準に、スライダーなら横方向、スプリットなら縦方向にどれだけ変化しているかが示される。球持ちのいい良質な直球ほど落差が少

ないため、基準とするボールの軌道より上方向に大きな数値が出る。

成瀬の直球はリリースから捕手に届くまでの減速が少ないと言われる。まだこの特殊カメラで実際に測定したことはないというが、こうしたシステムでの測定については「145、150キロとかの投手なら格好いいけど、130キロ台だと微妙じゃない? スピードがばれちゃうから嫌だ」と苦笑いする。一方で「球持ちのいい球を投げるにはトレーニングだけじゃ無理。肘の使い方、肩の回し方とかが全部合って初めてキレが出る」とプロ意識を見せる。昨年プロ野球最速タイの162キロをマークした大谷翔平(日本ハム)のスピードボールも夢があるが、プロならではの技術が生み出す成瀬の「キレ」が数字で見られたら、野球の奥深さがより伝わりやすくなると思う。

小林陽彦(こばやし・はるひこ)1987年神奈川県出身。2009年に共同通信入社。大阪運動部でプロ野球オリックス、阪神、サッカーG大阪などを担当し、13年は東京本社で「47行政ジャーナル」編集部。14年12月から本社運動部でヤクルトを担当。