時間の経過の感覚は、人それぞれの現在の年代によって大きく違う。例えば20年前と言ったら、高校生は生まれる以前の大昔の話に感じるだろう。逆に、自分のようにある程度の年齢に達している者には、数字を見ればだいぶ昔だなと思いながらも、記憶としてはつい先日のように感じることもある。

今からちょうど20年前の10月、カタールのドーハにいた。いわゆる「ドーハの悲劇」で広く知られる、ワールドカップ(W杯)米国大会のアジア最終予選だ。

1921年に日本サッカー協会が設立されて、90年余り。その長い歴史の中でも、この20年は日本のサッカー界が劇的な変化を遂げた期間だ。そして、個人的には日本サッカーの新時代のスタートを切った地が、93年のドーハだったと思っている。

W杯のアジア予選が現在のようなホーム・アンド・アウェー方式ではなく、まだ1カ所に集まったセントラル方式で行われた最後の大会。W杯米国大会を翌年に控え、大きな希望を持って日本は中東の小国に乗り込んだ。

日本サッカーの歴史を振り返ると、68年のメキシコ五輪の銅メダルを頂点に、実力と人気は下降。86年のW杯メキシコ大会を目指したチームが韓国との東アジア最終予選に進出を果たした例はあるものの、W杯はあくまでも夢でしかなかった。

その意味で92年3月の就任会見で「1番の目標は日本をW杯に出すこと」と宣言したハンス・オフトの一言は印象的だった。日本代表初の外国人のプロ監督。彼の力強い言葉は、W杯というものを日本人に初めて強く意識させた。

過去にアジアの舞台でさえ、何一つのタイトルも持たなかった日本。オフトのチームは、成長を瞬く間に結果としてわれわれの前に示してくれた。就任5カ月後には中国、北朝鮮、韓国を下しての初タイトル、ダイナスティカップ(東アジアカップの前身)優勝。さらに、11月の広島ではサウジアラビアを下してのアジアカップ初制覇。偶然の勝利ではない積み重ねは、Jリーグ開幕前夜の日本サッカーに人々の目を向けさせるには十分だった。

現在のカタールの繁栄から比べると、当時のドーハの町には、片田舎の小都市という印象しかなかった。砂漠の中にあるカリファ・スタジアムで10月15日から始まった最終予選は、アジア王者の日本にとって思わぬスタートとなった。

開幕戦のサウジアラビアに0―0で引き分けて、2戦目のイランに敗れ2試合を終えて勝ち点1(当時の勝ちは2ポイント)。残り3試合を残して、ラマダホテルの1階にあるプレスセンターに貼られた成績表の順位で日本は一番下の6位に記された。

チームの最大の問題となったのは左サイドバックの都並敏史の故障だ。チームには帯同したが、疲労骨折が完治することはなかった。攻守に大きな存在感を示していた都並の欠場は、大きな武器となっていた左サイドからの鋭いクロスを失うことを意味した。

攻守に素晴らしい能力を持つサイドバックがひしめく、現在の日本からは想像できないだろう。だが、当時の日本には人材がいなかった。そこでオフトが左サイドバックで起用したのが本来はMFの三浦泰年であり、CBの勝矢寿延だった。

残り3戦。あとのなくなった日本は、開き直りを見せた。カズ(三浦知良)と長らく2トップを組んできた高木琢也に代わり中山雅史、福田正博に代えて長谷川健太の新戦力を起用。チーム内には、なんとも表現のできない張り詰めた空気が漂っていた。印象に残るのは、繰り返された次のような言葉だ。

「強く当たれ。強く当たれば、ボールは自分たちの方にこぼれてくる」

キャプテン柱谷哲二が口にするその言葉は、冷静に考えればなんの根拠もない。ボールがどこに転がるかなど予想はできない。ただ、闘将が発する「闘う」という気と姿勢はチーム内だけでなく、見ていたわれわれにも強く伝わったことは間違いなかった。

北朝鮮に3―0の勝利を収め、韓国戦はカズの決勝点で1―0の完勝。最終戦の前に、プレスセンターの成績表の一番上には「JAPAN」の文字があったのを誇らしげに見た記憶がある。

そして、28日の現地時間16時15分に始まったイラク戦。これまでの会場とは違うアルアハリ・スタジアムで行われた試合は、終盤まで日本が2―1とリードしていた。ロスタイムに入り、あと30秒をしのげばというところまできていた。しかし、日本はショートコーナーからオムラムに「まさか」の同点ゴールを許し、夢のW杯初出場を逃した。有名な「ドーハの悲劇」だ。

リーグの最終勝ち点は、出場権を獲得した2位韓国と同じ6ポイント。得失点差でわずか2点及ばない敗退だった。

今となっては、ドーハのチームがW杯本大会に出場したら、どんな結果になっていたのかは分からない。ただ、あのチームは個人のために戦うのではなく、日本国民の期待のすべてを受けとめて戦った、真の「日本代表」だったいえるのではないだろうか。

確かに今の代表選手と比べると、個々のスキルはかなり落ちるだろう。だからといって、過去が現在よりすべて劣るとは限らない。

都並の故障で欠けたピースを、なんとか全員で埋めようとした必死さ。拙くても体を張り、ゴールを守り、ゴールを奪いに行った姿勢。精神論は好きではないが、確かに彼らには人の心に訴えかけるなにかを持っていた。

歳を重ねたから過去を美化しているわけではない。ただ現在の日本代表を見ていると思うことはある。ザッケローニ監督は20年前と比べものにならない豊富な駒を持ちながら、最善の選択をしているのか。選手たちは国を代表するという、ドーハ戦士と同じ誇りを持って戦っているのか。そういう疑問が時として沸くことはある。

過去から学ぶ。そういうことも、この世の中には確実にあるはずだ。今年もまた記憶にあせることのないあの日がやってくる。

岩崎 龍一[いわさき・りゅういち]のプロフィル

サッカージャーナリスト。1960年青森県八戸市生まれ。明治大学卒。サッカー専門誌記者を経てフリーに。新聞、雑誌等で原稿を執筆。5大会連続でワールドカップの取材を行っている