「プロ野球創成期、上井草に球団が存在した」―。こんなキャッチコピーのポスターが西武ドームに張られた。プロ野球西武のイベント、「ライオンズ・クラシック2013」(7月26~28日)の告知だった。西武はオリックス3連戦で、かつて西武新宿線の上井草駅近くに本拠地を置いた、東京セネタースのユニホームを着てプレーする。

幼少のころから西武新宿線の沿線に住んでいた私にとって、上井草は聞き慣れた場所だ。杉並区と練馬区の境目に位置し、11年前からは早大のラグビー部が練習場を構える。駅前に昔ながらの商店街があり、閑静な住宅街といった印象だ。記者になって、この場所に上井草球場があったことを知った。セネタースについて詳しいことは知らなかった。

日本プロ野球は1936年に日本職業野球連盟が創立し、一足先に結成された東京巨人(現巨人)のほか、大阪タイガース(現阪神)、名古屋(現中日)、阪急(現オリックス)、大東京、名古屋金鯱と東京セネタースの7球団で始まった。有馬頼寧(69年に野球殿堂入り)、安藤信昭の兄弟が西武鉄道(現在の西武鉄道とは別会社)と共同出資して東京セネタースをつくり、チーム名は2人が貴族院議員を務めていたことから、上院議員を意味する「senator」から取ったといわれる。

中心選手として活躍したのが苅田久徳だった。法大時代に名遊撃手として黄金時代を築いた。セネタースでは一転、二塁手に転向。当時は遊撃手に比べて二塁手は軽視されていたそうだが、プロらしい見せる守備で観客を魅了した。守備位置や動き方など、現在の二塁手のスタイルをつくったといわれる。監督兼選手だった38年春に最優秀選手に輝き、40年はベストナインに選ばれた。69年に野球殿堂入りし、顕彰文には「走打にも優れた天分を示したが、その堅実 華麗な守備は抜群で観衆を陶酔させた」と記された。

セネタースは1年目の36年こそ健闘したものの、優勝は1度もなかった。戦争の影響で英語の使用ができなくなり、40年にチーム名を「翼」に変更。翌年には翼と名古屋金鯱が合併し「大洋」となった。その2年後には「西鉄」に変わり、43年に早々と球団の歴史に幕を閉じた。始まったばかりのプロ野球は世間にあまり認知されず、時代背景も手伝って激しく形を変えた。

本拠地だった上井草球場は球団結成に合わせて36年に建設された。両翼100・6メートル、中堅118・9メートル、収容人員は2万9500人を誇り、36~38年にプロの公式戦は83試合開催された。戦後はどこよりも早く修復され、米軍に接収された神宮球場に代わり東京六大学の試合が行われた。プロの公式戦は50年にパ・リーグ8試合が開催されたのが最後になった。跡地には現在、上井草スポーツセンターがある。プールやテニスコートがある立派な施設だ。人工芝のサッカー場兼野球場があるものの、当時を想像させるものは何も残っていない。館内に昔の写真や歴史を説明した8枚のパネルがひっそりと展示されている。

駅前の商店街で上井草球場の様子を知る人に話を聞くことができた。鈴木定雄さん(80)は中学生のころ、東京六大学の試合でスコアボードの掲示を手伝ったそうだ。プロよりも大学の人気が高かった時代で、関根潤三ら法大の選手が頻繁に練習に来ていた。物資が乏しい時代で、選手が拾い忘れたボールを探し、小さく縫い直して使っていたことを教えてくれた。観客席は49年に4万5500人収容に拡張され、スタンドは多くの人で埋め尽くされた。鈴木さんは「学校をずる休みして見に行っていた。あれ以上の人が上井草に来たことはない」と懐かしそうに振り返った。

最近は各チームが毎年、歴代のユニホームを着るイベントを催している。これをきっかけに野球や球団の歴史を知り、当時を想像しながら観戦するのも醍醐味ではないだろうか。

上地安理(うえち・あんり)1980年東京都生まれ。他業種を経て2006年に入社。大阪支社、名古屋支社でアマチュア野球、プロ野球などを担当し、13年から本社運動部でプロ野球西武を担当。