広島カープの伝統は機動力である。近年では東出輝裕や丸佳浩らが塁上を駆け回り、過去にも高橋慶彦や正田耕三らが記憶に残る。強打のイメージの山本浩二や衣笠祥雄、前田智徳も、盗塁や好走塁が多かった。常に次の塁を狙うスタイルには、赤ヘルファンならずとも魅了される。走る野球の系譜をさかのぼると、米国アリゾナ州の砂漠にたどり着く。

アリゾナ州フェニックスから車で南下すること約1時間の場所に、ヒラリバーという砂漠がある。灼熱の大地で、夏は気温が50度を超える。360度、地平線まで砂地が続く。その一角に、コンクリートの土台がわずかに残っている。かつての日系人強制収容所の跡だ。今は誰もいないこの場所で、機動力野球が培われた。

第2次世界大戦中の1942年、米国政府は日本人移民や日系二世を「敵国日本に協力する恐れがある」として、財産を事実上没収し、強制収容所に連行した。日系の青年たちは、日本人と殺し合う戦闘行為を避けつつ、生まれ育った米国への忠誠を証明したいと、志願して欧州戦線に出征していった。彼らが編成した第442連隊は米軍最強とも言われたほど勇敢に戦い、多くの若者が遠い地で戦死した。

財産を奪われ、青年たちは戦場に去り、残った人々は囚人扱いに。絶望の中、ヒラリバーに収容された人々は、砂漠を開拓した。堀をめぐらせ、砂を耕し、貴重な水をまいた。荒野に畑が並んだ。病院が建ち、学校もできた。次に、人々は野球場の建設に取りかかった。野球規則通りにマウンドを盛り上げ、住宅用木材でフェンスや観客席をつくり、洗濯用水で外野に芝生まで育てあげた。

43年、希望を込めた球場が完成した。一塁手兼投手だった古川哲男さん(85)は「何もなかったが、ベースボールができると思うと胸が躍った」と、収容所の青春を振り返った。戦前にセミプロだった選手もおり、レベルは高かったという。噂を聞いて、米国人チームも遠征に来るようになった。遊撃手だった入山正夫さん(91)は「体の大きい米国人に対し、日系人は敏捷性を生かした。一歩目のスタートを磨いた」と、走る野球の原点を明らかにした。

終戦直前、アリゾナ州の高校選手権を6連覇したトゥーソンの強豪校と、機動力が武器だった収容所の高校チームが対戦した。延長十回、左前にサヨナラ打を放った銭村健四と、その兄の銭村健三の兄弟が、終戦後の53年に広島カープに入団した。ともに俊足好打が売りで、弱小だった広島に「機動力革命」を起こした。獲物を狙うような走塁に、併殺を阻止しようとする猛スライディング。健三さん(86)は「カープのみんなは、びっくり仰天していた。『何だ、あいつらの走りは』とか『体当たりはやめろ』とか言われた」と、楽しそうに思い出を語った。兄弟の影響は大きく、通算456盗塁の金山次郎や日系人のフィーバー平山(平山智)ら走れる人材も得て、積極走塁が広島に浸透していった。

ヒラリバー日系人強制収容所は終戦とともに役割を終えた。熱戦が繰り広げられ、連日満員だった球場は、跡形もない。酷暑の中を全力疾走した選手たちも、健在な人は少なくなった。時を超え、機動力野球が日本で脈々と受け継がれている。

伊藤 光一(いとう・こういち)1972年生まれ。神奈川県鎌倉市出身。共同通信入社後、社会部、大阪社会部で事件・事故取材など担当。2009年から東京運動部でラグビー、プロ野球などを取材し、13年からロサンゼルス支局でスポーツを取材。